ある昼下がり。
昼食を摂りに食堂へ降りてきたスコール達は、そのまま談笑タイムに突入していた。
スコールは皆が楽しげに話し合う様子を、微かに笑いながら見ていた。勿論、たまには笑い声を立てたりだとか、一言ツッコミを入れたりだとかはする。
しかし積極的には口を挟もうとはしない。それは昔からの癖であったり、かつて経験したことからの学習結果だったりする。
ある保護士――ガーデンでは、生徒の学内アルバイトとして、年長者が幼い子供達の面倒を見る「保護士」という制度がある――には話かけたところで邪険にされた。
ある時には、思ったことをはっきり言えと言われて口にしたところ、掴み合いの大喧嘩になったこともあった。
また、「SeeDは何故と問う勿れ」を徹底していたせいもある。今でこそそんなことをすれば免職モノだが、バラム・ガーデン発足当初は軍属上がりのろくでもない教師もいて、少しでも口応えすれば最早虐待と言える程のあらゆる暴力を振るうと評判の者もいた。
そんなこんなの積み重ねで、だからスコールはあまり話さない。
――だが最近はそうもいかないのだ。
「……で、さぁ、スコールはどう思う?」
「概ねゼルに同感だな」
「え〜? 根拠言えいいんちょ〜」
「1から10まで? 面倒だな……」
「面倒がらずに言ってよ。スコールの考え、聞きたいな」
このやり取りが無性に楽しかったりして、スコールはちょっぴり笑みを深くした。
ブルーグレーの瞳、というと格好良いように聞こえるが、要するにただの蒼色の目だろ、とスコールは思う。
鏡を見ると一番に目に入る自分の顔。所謂、スカーフェイス。誰も気にしないのは、治りかけた傷痕が茶色くなっていて、髪の色と馴染んでしまうから。
その下の、目。淡いブルーの、ふたつの目。
母からもらった目なのだと、最近知った。髪も、母の色なのだと、最近知った。
見つめる自分の顔に、ちらと見たことのある女性の面影を重ねてみる。
「お、かあ、さ、ん」
言い慣れない言葉。言えなかった呼び名。
喉の奥に熱い塊が込み上げる。
スコールは素早くバスルームに入ると、シャワーの中でほんの少しだけ泣いた。
深夜1時。
帰ってきたスコールを迎えたのは、暖かな部屋とリノアの笑顔だった。
「おかえり」
「……ただいま」
寒いからか眠いからか、はたまた疲れているからか、スコールは笑顔を作ることが出来なかった。リノアは呆然としているスコールの背後へ回り込み、暖かなリビングへ追い立てた。
「寝ててくれて良かったのに」
「だってスコール、ひとりにしとくと食べないし、髪も乾かさずに寝ちゃうでしょ? ただでさえ寒いのに、余計身体冷えちゃうじゃない」
アンジェロは部屋の片隅で静かに寝ているようだったが、2人の足音にひょいと耳を上げて鼻を鳴らした。スコールが近くに座ったと見るや、何気ない様子で起き上がり、彼の傍らへ臥せる。
「アンジェロ……」
スコールはアンジェロの頭を撫でた。アンジェロは気持ち良さそうに目を閉じて、スコールの手に自分を委ねる。
ただ、甘えるように鼻を鳴らすその調子が、やけに悲しそうに聞こえて。
「はい」
キッチンから戻ってきたリノアが、スコールへマグカップを差し出した。甘い香りがする。
受け取ったカップの中身は、こっくりとしたダークブラウンで満たされていた。スコールが問い掛けるようにリノアを見ると、彼女は柔らかな微笑みを浮かべる。
「ホットチョコレートだよ」
リノアは簡潔に答えると、スコールの傍らへ座る。
「…………」
俯いたスコール。リノアは特に構うことなく、自分の分のホットチョコレートに口を付けた。
「お疲れ様。あなたが無事に帰ってきてくれて、良かったよ」
ただそれだけの言葉が無性に胸に染みて。
初めて飲んだホットチョコレートは、ほんのちょっぴりだけしょっぱい味がした。
スコールは、バトルする時には決まって革手袋をはめている。多分指先の保護の為に付けているのだろうが、試しにじゃれて問い掛けたところ「単なるカッコつけアイテムだ」と笑いながら返された。
よくこなれたしなやかな革手袋も、今日はお留守番。
(大きいなぁ……)
机に置かれた革手袋をしげしげと眺め、リノアは今更な感慨を抱いていた。
そっと、掌を宛てがってみる。ひんやりした革は、その細く小さな手を優しく受け止めた。
これが、スコールの手。
指の関節ひとつ分……というと大袈裟だが、それだけの差があるかもしれない、と思う程には違う。
リノアは悪戯心を起こして、手袋に指先を潜り込ませた。大きすぎる手袋は、ぺろんと指先が折れてしまう。
「何やってるんだ?」
ちょうど部屋に帰ってきたスコールは、リノアの手元を見てくすりと微笑う。
「ん? スコールの手っておっきいなぁ、と思って」
「そうか?」
手袋をはめたままぱたぱたと振って遊ぶリノアの姿に、スコールは楽しそうに笑う。
「リノアの手は小さいな」
「小さくないよぉ。スコールの手が大きいんだよ」
「いや、リノアが小さいんだ。俺は普通」
「よく言う。身体おっきなくせして」
笑いながらの言い合いは、まるで睦言のよう。
おいてけぼりにされたアンジェロは、床に寝そべって大きな欠伸をした。
スコールは、普段シャツとスラックス、といったシンプルイズベストを地で行くような服装を好む。仕事をする際には邪魔にならないように、という彼なりのこだわりらしい。
しかし休日になると、急に「キツイ」格好になるのがリノアには可笑しくてならない。
ある朝、ゼルがスコールのアクセサリーを見て顔をしかめた。
「げ、お前また何着けてるんだよ」
服装は至って普通の若者だ。大胆な柄の入ったタンクトップの上に黒い開襟シャツを羽織り、下はジーンズを着ている。だが、彼の着けているアクセサリーが強烈な異彩を放っていた。
革製の首輪、である。それも、正面中央に小さな南京錠の付いた。
「お前、いい加減見馴れろよ」
スコールが溜息をつくと、ゼルは皆を見回した。誰かツッコめ、と目で頼んでいる。しかし誰も援護射撃はしない。セルフィは一目見て固まっていた。アーヴァインは人の趣味に口出しするのは野暮と思っている。キスティスはそれこそ見馴れているから何も言わないし、スコールの好みをリサーチ中のリノアはむしろそれをインプットしようと凝視していた。
「ったく、毎度毎度どこで見つけてくるんだよ、そんなの」
「ガルバディアの『HUNTER』って店の通販。最近、バラムにも出店したらしいな。今度行くか?」
「行かねぇ……俺はちょっと、趣味じゃねぇわ」
ゼルが手を振って謝絶すると、スコールは「そうか」と食後のカフェラテを口にした。
「……ねぇ、いいんちょ。それ、どうやって外すの?」
セルフィが問うと、スコールは共革で出来たブレスレットを見せた。
「これ。この鍵」
「うわっ、てことは本物かいなその鍵!」
セルフィは椅子ごと身を引く。キスティスは苦笑した。
「流石に冗談でしょ?」
スコールは軽く肩を竦めると、ブレスレットを外してリノアへ差し出した。外してみろ、と行動で示す。
リノアはブレスレットを受け取ると、おっかなびっくり鍵を手にしてスコールに近付く。スコールは頭を反らして喉を曝した。
「……あ」
かちんっ、と小気味良い解錠音がした。スコールは南京錠を外し、チョーカーが外せる状態であることを示してみせる。
「本物なんだ……」
リノアはまじまじと、鍵と錠を見比べる。
「やるよ、そのブレス。元々ペアものだし」
「それって逆じゃない?」
スコールの提案に、アーヴァインが苦笑いでツッコミを入れた。
「正直な話……スコール先輩って、リノアさんのことどう思ってるんですか?」
後輩の唐突な質問に、スコールは目を瞬いた。
「どう……って、何の話だかさっぱり見えないんだけど」
きょとんとしているスコールは、ただ今キスティスの手伝いで小テストの採点の真っ最中。ぶっちゃけ暇ではない。
「だからー、リノアさんのことをどう思ってるんですかー?」
「……だから、何で本人がそんな話をしにきたんだ?」
首を傾げるスコール。後輩であるSeeD、リノア・ハーティリーはにこにこしている。
「だってさ、スコールは皆にすごい勢いで惚気ているとゆーじゃないですか。でも、肝心のわたしは聞いたことがないんだよねぇ」
だからって本人の前で惚気ろと? スコールの眉間にシワが寄る。
「…………」
スコールは無言でリノアを招いた。
「?」
首を伸ばして顔を寄せるリノア。スコールはその顎先をやんわり捕らえると、ちゅ、と口付けた。
「こういうことするのはお前にだけ」
スコールは真顔で囁くと、するりと手を離して採点作業に戻る。
何も言えなくなったリノアは真っ赤な顔で、大人しく終了を待つことにしたのだった。
風が吹く。
見渡す限りの花畑から花びらを巻き上げ、微かに潮の香りを含んだ風が頬を撫でる。
「……あのね、喋って良い?」
リノアは徐にそう口を開いた。
彼女は夢を見たのだという。俺と約束した筈の待ち合わせ場所が思い出せず、世界中を駆け巡る夢を。
「『スコール、どこ?!』……って叫んで、目が醒めたの」
そういう彼女の顔は浮かない。 俺は、少しでも笑って欲しかった。だから、夢に託けて「約束」をした。
「ここにしよう。俺、ここにいるから」
リノアはきょとんとした。
「『いるから』、何?」
「俺はここで『待ってる』から……」
俺がそう言うと、リノアはやっと意味をわかってくれたらしく、淡い笑みを見せた。
「……誰を、待つの?」
わかるだろ、この話の流れで!! 俺は顔に血が上っているのを自覚しつつ、やけくそ気味に言った。
「俺、ここでリノアを待ってる、か、ら……来てくれ!」
リノアの顔が、嬉しそうな笑顔になった。
「ん、わかった。わたしもここにくる! これで、今度は会えるね!」
あぁ。
俺は、この笑顔を守ってやりたい。
年少クラスを対象にした野営訓練(一般的に、これは『キャンプ』という)の最中、誰かが「お月様!」と声を上げた。
きれいだねー、とか、あれ欲しい、とか、無邪気な歓声が上がる。
今回、教育実習生として参加したスコールとアーヴァインは、顔を見合わせた。
「無邪気なもんだよな」
「だよねぇ、モンスターの生まれ故郷とも知らないで」
アーヴァインは苦笑いする。 スコールは、除虫用の香木を篝火へ放り込む。バイトバクなどの攻撃から子供達を守る為だ。ぱちんっと火が弾け、ふわっと香りが立つ。
「ほら、皆! お月様の観察はそれくらいにしてテントに入れ!」
両手を打ち鳴らすスコールの声に、子供達は「はぁーい」と元気な返事をした。
「じゃあ、アーヴァイン」
「うん、また2時間後にね」
アーヴァインはひらりと手を振り、スコールを残してテントに潜っていく。これから2時間仮眠をとり、スコールと交代で夜番をするのだ。除虫香を焚いているからといって、モンスターが寄って来ない訳ではない。
香木は懐かしいような香りを燻らせ、煙と共に空へ昇っていった。
「何を意地になってるのかしらねぇ」
快く囀るリノアの笑みに、スコールは戸惑う。
「甘えたかったら、素直に甘えてくれば良いんだよ?」
その声がもたらす甘い蜜は、ゆっくりと零れてスコールの心を濡らす。
だかスコールは、それを受け止めることが出来ない。受け止め方がわからない。わからないから戸惑って、意地を張ったように拒否してしまう。
だから彼は、目を逸らした。
だが。
「おいで、スコール」
リノアの腕はまだ彼へと伸べられたまま。
「怖がらなくて良いよ。おいで」
穏やかな笑顔も、まだ彼へ向けられたまま。
ぐらり、と、気持ちが揺らぐ。
――そして、唐突に気付いた。リノアもまた、意地になっているのだ、と。
こんな意地の張り合いで、スコールに勝ち目があろうはずがない。
スコールは内心白旗を上げると、大人しく恋人の胸へと堕ちていった。
あとはただ、甘やかされるのみ。
「何よ、スコールの分からず屋!」
その大声に、食堂にいた誰もが注目した。
見れば、リノアは怒りも顕わに立ち上がり、スコールを睨んでいた。
対してスコールの方は、戸惑いを「不愉快」に擬態させて眉間を狭めている。彼の首には白い保護シートが貼られており、また手首を固めるように包帯が巻かれていた。
周囲の誰もが、またスコールが何か失言したんだろう、と思った。
「もぅ、知らない!」
リノアはふいっとそっぽを向いた時、スコールははっきりと眉間にシワを作った。
「知らない、って言われても困る。自分で手当て出来ない……」
「…………」
リノアはうっと詰まる。
「……っい、いつもいつも甘えないの!」
リノアはスコールに向き直ると、叱るように言葉を叩き付けた。
「怪我の手当てくらい、自分で出来るでしょ!」
「一応出来るけど、綺麗にならない。倦ませて痕残った傷ならいくつかある」
「……参考までに訊くけど、何回やらかした?」
「…………3回? いや、4回……5回あったかも?」
「……も、良い」
リノアはがっくりと頭を落とした。ついでに両手をテーブルに突くと、挫折のポーズを作る。
「だから、見捨てられると困る」
「だからそれが甘えてるんだって言ってるでしょうが。こんなときばっか甘えてないで、たまには普通に甘えてこいっ。っていうかそもそもわざと怪我するような真似しないの!」
「わざとじゃない。たまたま転んだやつを庇ったところに、たまたま別のやつの攻撃が当たっただけで」
「それくらい予測しなさい、危機管理能力検定取ったんでしょ?!」
「取ったけど、それとこれとは関係ない」
「関係なくないっ! あーもぅ良いから早く来なさい、湿布とガーゼ替えてあげるから!」
のんびりコーヒーを啜るスコールの腕を引っ張り上げ、リノアはずんずんと足速に食堂を後にした。
「……今の、何? 喧嘩?」
「さぁ……単なるコイビト同士のお喋りじゃない〜?」
端から見ていた傍観者QとSは揃って肩を竦めると、互いの目を見て苦笑いを交わした。
パーティーの最中、リノアはスコールを探して会場内をうろうろと彷徨っていた。
「リノアさん、楽しんでる?」
そんな彼女に声をかけたのは、保健委員の1人。スコールが保健室で「入院」していたとき、1番最初にリノアを手伝ってくれた少女だった。 リノアは満面に笑みを湛えて頷いた。
「うん、楽しんでるー。ありがとう♪」
ちゅ、とキスを投げると、少女は「うっ」と胸を押さえてのけ反って見せた。ノリの良いその調子に、リノアは朗らかに笑う。
そして、あ、と思い出した。
「ねぇ、スコール知らない?」
「スコールさん? いや……うーん、ごめん知らない。会場内では見てないような……気がするよ?」
「え、本当?」
リノアはあからさまに顔をしかめた。少女はくすくす笑う。
「リノアさんって、わかりやすいよね。可愛いなぁ」
リノアは照れて肩をすぼめる。少女は微笑いながら彼女の肩を叩き、「楽しんでね」と行き過ぎていった。
再び1人になったリノアは、所在なげに周囲を見回した。
1人。独りぼっち。そんな感じがする。
パーティー会場では、皆にもまだ逢えていない。……いや、ゼルは見付けたのだ。しかしパンを頬張るのに忙しそうだったので、声をかけるのは遠慮しておいた。他の皆も、遠からず見付かるに違いない。
それにしても、スコールは何処だろう? まだ松葉杖を突いて歩いているような状態だから、会場でもうろうろせずに座っていそうなものなのだが。いつもながら、気配の薄い人だ。
少し疲れたリノアは、ふらふらとテラスへ向かった。
大きな月の下、海風が心地好い。リノアは気持ち良さそうに伸びをすると、テラスの縁にもたれかかった。
「疲れたか?」
「きゃあ!」
突如背後からかかった声に、リノアは飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて振り返ると、そこには探し人の姿。
「スコール!」
スコールは、申し訳程度にテラスに置かれたベンチに座っていた。リノアの慌てように、小さく淡く笑っている。その隣には、保健室を「退院」するときに借り出した松葉杖が立て掛けられていた。
リノアは両手を腰に矯めた。
「探したんだぞ? スコール」
「悪かったな」
リノアのわざとらしい怒りに返すいつもの口癖は、どこか柔らかい。
それに、驚く程気配が淡い。それも当然――大戦が終わり、彼が起き上がれるようになってからそう日は経っていない。まだ本調子には程遠いのだ。今日のパーティーはスコールの「退院」を待って開催されたが、それでもなお、足りないくらいに。
――だが、遠からず彼は完全に快復するだろう。ドクター・カドワキをして「奇跡」と言わしめるその生命力でもって。
リノアは軽く首を傾げ、何気ない風で問い掛けた。
「ねぇ、スコール。ここで何してたの?」
「月を……」
見ていた、と、スコールは緩く顔を上げる。
「……こんな風に、空を見上げたのは、久しぶりだ」
「そっか」
それきり、無言。2人は暫し、心地好い沈黙を共有する。
大分経ってから、スコールは口を開いた。
「魔女に関する暫定条約、学園長から聞いた」
「……うん」
つい数日前、リノアの処遇に関して、バラム・ガーデン、エスタ、ガルバディアの間で条約が結ばれた。学園長が淡々と、しかしどこか悔しそうにスコールへ伝えた結論は、「バラム・ガーデンでの無期限保護」だった。どういう思惑が絡んだのか、どういう思いやりが絡んだのか、その当日まだ夢現だったスコールは知らない。だがただひとつ言えるのは、リノアはバラム・ガーデンに幽閉されるも同然、ということだった。禁止された外出の唯一の例外は、「魔女の騎士が同行する場合」のみ。
「ごめんな、何も出来なくて」
リノアはふわっと微笑い、首を振った。そして、手すりの向こうを見遣る。
あぁ、何て大きな月だろう。海に月の影が反射して、まるで月まで道が繋がっているように見える。
そこに、さっと一条の光が煌めいた。
「あっ」
リノアは目を瞠り、スコールを振り返った。スコールは少しふらふらとしながら手すりへ身体をもたせ掛け、空を見上げる。
「見た?」
空を指差すと、スコールは柔らかい笑顔と共にリノアを見る。
「……見た」
流れ星を見て、スコールは何を思っていたのか。それをリノアは知らない。
スコールはその滑らかな頬へ手を伸ばした。感触を楽しむように親指で撫で、その手でもって彼女の腕を掴み、引き寄せる。
いつしか笑みは消えていた。真摯な眼差しが、リノアを射抜く。
「……護るよ、俺が」
「ス……」
ふわりと唇が重ねられた。
それがたった一瞬のことだったのか、永い間のことだったのか、リノアにはわからない。ただ、唇が離れた瞬間、彼女は恥ずかしさから俯いてしまった。
それをどう捉えたか、スコールの手が、ゆるりと離れる。
「……悪い、調子に乗った」
「う、ううん」
リノアはふるふると頭を振る。スコールは気まずそうに頭を掻き、くるりと踵を返した。
「もう、寝るよ。ちょっと疲れた」
「あ、…………スコール!」
リノアはその背中に慌てて声を投げかけた。スコールは松葉杖を手に、ちらと振り返る。
「明日から、よろしくね。魔女の騎士さん!」
リノアが満面の笑顔でお願いすると、スコールは微笑んで請け負ってくれた。
スコールが、帰還した。
リノアは誰よりも先んじて彼を迎え、入念にその無事を確かめた。仲間達に冷やかされながら部屋へ戻り、荷解きもせぬままに身体をぶつけ合い、情を酌み交わす。
――そんな十日振りの逢瀬で、眠りに就いたのは果たして何時だったのか。
闇に沈み、僅かに月の光が差し込む部屋で、リノアはふっと目を醒ました。
暑い。
何故か、と問う間もなく、理由は知れた。リノアは、スコールの腕の中にいるからだ。リノアの背にひたりとくっついたスコールの腹が、緩やかに膨らみ、また縮むのが感じられる。
(あぁ、還ってきたんだ――)
リノアは愛おしさに知らず笑んだ。
枕になった左腕が視界に入る。その先にある手の中には、自身の左手が入っている。明度の違うふたつは、溶け合うように絡み合っていた。
では右腕はというと、力無くリノアの腹に回っていた。そうした覚えは全くなかったが、リノアの右手はスコールの右手を捕まえるかのように、手の甲から重ねられている。
その小指辺りに、ブランケットが触れていた。……つまり、ブランケットがブランケットの用を成していないということだ。
どうしたものだか、とリノアはそっと息をつく。
このままでは風邪を引かせてしまうかもしれない。だが片手でも動かせば、疲れきっている彼を起こしてしまいそうで。
散々悩んだ後、リノアはそうっと手を離した。瞬間、スコールの右手がぴくりと跳ねる。そして、きゅっと輪が縮まりリノアを捕えた。
「……リノア……?」
極々小さな掠れ声。
「……ごめん、起こした」
ばつが悪いったらありゃしない。リノアは申し訳なさそうに首を捩った。
「どうしたんだ……?」
口調はとろんとしているが、身体はそうでもないらしい。スコールは擦り寄るようにその頬をリノアの黒髪に寄せた。その身体は、少し熱を帯びている。
リノアはスコールの腕の中でくるりと身を翻し、鼻先を彼の肩に埋めた。
「ううん、別に何も。ただ、スコール寒くないかな、って。ケットかかってないから……」
微かに笑う気配がした。
「平気だ。リノアがあったかい」
きゅう、と抱き締められると、リノアは満足そうに溜息をつく。そして両腕を彼の背中に回し……。
「……っつ」
「!」
スコールが小さく呻いた。リノアは驚いて肩を聳やかせ、がばっと身を起こした。
「スコール、怪我してるの?!」
「いや単なる打撲だ。気にしなくて良いよ……良いってば、リノア!」
ぽ、とベットサイドに置かれたスタンドの明かりが点いた。柔らかな明かりの中、中途半端な体勢になったスコールの姿が浮かぶ。
「……スコール」
リノアの声に、微かな怒りが篭った。背中に、黒い影が出来ている。腰の上の辺り、脇腹に近い位置だ。情交の間には気付かなかったが――組み敷かれるリノアからは死角だったし、しがみつく時に手を回すのは主に背中であったから――、これは痛かった筈だ。
「これ、どうしたの」
「……別に」
「『別に』、じゃないでしょ」
リノアは指先をそっと影へ近付けた。だがスコールは鬱陶しそうにその手を払い、起き上がる。その動きを追い、リノアの目線は自然と上へ向いた。
「あんたさ、何か勘違いしてないか? 俺が何なのかわかってるか?」
「わ、わかってるよ」
「わかってない。俺は、俺達SeeDは傭兵だ。無敵のヒーローじゃない、使い捨てでいくらでも換えの利く戦闘力だ。怪我をして当然だし、命があるだけ大分マシ。五体満足ならかなり幸運なんだぞ」
「そんな言い方ない!」
「あるさ」
スコールの瞳は、淡々と光を弾くガラス玉のようだった。
リノアは、悲しくなる。こんな目をしていなければ、彼を迎える戦場を駆け抜けることなど不可能なのだろうか。そしてそれは、安心出来る筈の
「……やっぱり、ないよ。スコール」
「…………」
「スコールこそ、わかってない」
「何が」
「確かにスコールはSeeDで傭兵で、雇った人にとっては換えの利く存在かもしれない。だけどスコール、わたしにとっては、換えの利かないたったひとつの存在なんだよ?」
「………………」
伝わっただろうか。
リノアにとっては、雇い主こそどうでも良く、スコールが無事に帰ってきてくれることが肝要なのだ。そしてその為には出来るだけスコールには怪我をしてほしくないし、怪我を隠してほしくない。
リノアは今度こそスコールの赤黒い痣に手を触れた。痛みのないように、出来るだけ優しく触れる。スコールは俯き、リノアの手の動きを見つめていた。
「……ケアルね、あんまり効かないんだよ。こういう打ち身とか、骨が折れたりとかには」
だから、そっと撫でるだけ。少しでも早く癒えるようにと、気持ちを込めて。
そのしなやかな腕を、スコールは引き寄せた。
「リノア」
「なぁに?」
「この際、はっきりさせておこう」
リノアを胸に抱き寄せたスコールの声は。
「俺は、傭兵だ。使い捨ての、道具だ」
ひどく、弱弱しく。
「だから、どうしたって怪我も多い。ひょっとしたら、命に関わるものも、出てくると思う」
やけに、潤んでいて。
「だけど俺は、ここに帰ってくる。リノアが待っていてくれるから、何が何でも帰ってくる。その為なら何だってしてやる」
痛みばかりが。
「たったひとつ、自分の生命を拾ってくる為に、この手を汚してくるのかもしれない。この生命の代わりに何かを失くしてくるのかもしれない。腕や、脚や……この顔、かもな」
哀しみばかりが。
「この体そのものを、穢してくるのかもしれない」
苦しみばかりが。
「……おまえ、それに耐えられる?」
彼女の胸に、突き刺さる。
「……耐えられる耐えられないとかの問題じゃないよ」
とても瑣末事とは言えない例え話に、冷えた胸が空っぽになってしまう。
手を汚してほしくない。
何一つ失くしてほしくない。
自分以外の誰にも触れさせたくない。
――――だが、それを言って何になる?
(あぁ、スコールは確かに、傭兵なんだ……)
リノアに出来ることは、彼をただ抱きしめてやることだけだった。
そして、漸うたった一言。
「朝になったら、カドワキ先生に、その怪我診せに行こうね」
リノアに言えたのは、たった一言。
スコールを心配しているんだよ。その気持ちを込めた一言だけだった。
雨が、降っていた。スコールは部屋の中からそれをじっと見つめている。
リノアはその背中に声をかけるのを躊躇っていた。
椅子に腰をかけ、窓枠にべったりと身を預けている彼は、ひどく弱々しい。雨が降ると何も出来なくなるのだ、と彼が言っていたのは、いつの話だったろう。
リノアはそっと肩に触れた。
「リ、ノア……」
やっと存在に気付いたのか、スコールが漸く目を上げた。リノアは淡く微笑む。指先でゆっくりと髪を梳いてやると、ガラス玉のように彼女の顔を映していたその目に、微かな光が宿る。
「リノア、抱いて」
甘えるように彼は言う。
スコールの「抱いて」に、性的な意味はない。その意味では、彼は幼子同然だった。か細いスコールの言葉に、リノアは頷いて両腕を肩に回してやる。
だがスコールがその胸に甘えることはない。彼の目は、相変わらず雨を見ている。この時ばかりは、慈雨であろうとリノアは憎む。
――早く、止んで。いい加減、スコールを解放して。
どこかへ飛び立ってしまいそうな希薄な生命を、リノアは一生懸命繋ぎ留めようと両腕に力を込めた。
「リノア、ごめん! シャンプーのストック取ってくれ!」
バスルームからの呼び声に、ソファで寛いでいたリノアは腰を上げた。
「もぅ、残量くらい把握しておきなさいよねー」
そう言いながらも、彼女の口調は優しい。司令官としては完全無欠のように見える彼も、あれで私生活では少し抜けたところがあるのだ。
リノアはくすくす笑いながら、新品のシャンプーを手にバスルームのドアを開けた。
「スコール、お待た……」
その姿を見、リノアは思わず目が点になる。
「………………」
「何だよ」
狭いバスルームの、小さな浴槽の中。スコールは憮然とした顔で、膝を抱えて座り込んでいた。
リノアの目が笑みの形に歪む。
「笑いたきゃ素直に笑え」
仕方がないといえば、仕方がないのだ。だってここは学校の寮、広い風呂など望む方がおかしい。
「リーノーアー」
「だ、だってスコールかわいっ……!」
爆弾投下。
スコールは口をヘの字に曲げると、いじいじとそっぽを向いて、更に小さくなった。
(……ちょうど、)
階段1段分だな、とスコールは思う。
いそいそと階段を昇るリノアに手を引かれ、彼女のつむじが見えない、というある意味珍しいこの状況。この具合だと、ちょうど、彼女の目線と自分の目線が、ぴったりと会うのだ。
つまりは……。
「ね、スコー……」
リノアが振り返ると、ちゅ、と可愛らしい音が2人の間に響いた。
極端な至近距離で、スコールの蒼い目が笑う。
「ちょうど良い高さだな、これ」
「も、もぅ……何やってんの……」
「良いだろ? 誰もいない」
スコールは愉しそうに囀ると、リノアの薔薇色の唇へもう一度口付けた。
世界にささやかならぬ傷を遺した第三次大戦が終わり、バラム・ガーデンは漸く帰郷の運びとなった。バラムの人々は、皆歓迎してくれた。バラムにとって、ガーデンとはそれなりに重い存在であるらしい。
さて、バラム・ガーデンが古巣であるアルクラド平原の片隅に降り立った時、バラムの人々がまず最初に何をしたかと言うと……子供達のための、緑溢れる校庭の再建であった。
バラムの人々は、バラム・ガーデンに住まう身寄りのない子供達を殊の外大切に思ってくれる。幼い頃のスコールも、「バラムの子」と呼ばれて折に触れ大切にされた覚えがある。そんな存在の為に力を尽くしてくれるのは、とてもとてもありがたい。どうしてそんなにまでしてくれるのかと問えば、彼らは事もなげに言う――そんなこと、理由なんてないよ、と。
その心根は、このバラムそのものだ、とスコールは思う。
バラムの四季は美しい。春にはけぶるように桜が咲き誇り、夏は心地好い海風が熱い大気をさらう。秋には艶やかな紅葉が彩を競い、冬はしんと冷たい空気が身を引き締める。その縮図を、このガーデンへ贈ってくれたバラムの人々には感謝してもし足りない。
3階にある司令室から校庭を見下ろし、スコールは満足げな溜息をついた。
「あら、スコール。どうしたの、校庭眺めて溜息なんてついて」
端から見ていたキスティスが首を傾げる。
「別に……」
「まさか、出来栄えが不満なの? こーんなに綺麗にしてもらったのに」
「逆。……綺麗だな、と思って」
「へーぇ?」
意地悪く笑うキスティス。スコールは半眼で彼女を睨むと、そっぽを向いてしまった。
「もうあんたと口聞かない」
「あ、ちょっと、やーね。ちょっとからかってやろうかなと思っちゃっただけじゃないの。ほら、ごめんなさい、ってば」
拗ねた彼は有言実行。それをよくよく知っているキスティスは、珍しく慌てて取り繕おうとするのであった。
SeeD。世界有数の特殊戦闘部隊。
バラム・ガーデンは孤児を守り育み、「悪き魔女」を倒す為の切り札としてSeeD達を育て上げた。果たして彼等はその願い通り、未来から来た「悪き魔女」を討ち果たした。
SeeD、その名はガルバディア語で「種」を意味する。例えるならば、SeeDは則ち「未来の種」であったのだ。
――では、その種はいつ蒔かれたのだろう?
『SeeDは魔女を倒す。ガーデンはSeeDを育てる』
その言葉がきっかけとなったのか、あるいはそもそも構想があり、その言葉が後押しになったのかは誰も知らない。だが13年前のあの日、未来への種は確かに蒔かれたのだ。
(俺は、余計な事をしたのかな)
大戦からひと月足らず、やっと独力で起き上がれるようになったスコールは、己の掌を見つめた。
まだ、感触が残っている。重いガンブレードが、易々とアルティミシアの身体を斬り裂いた、感触が。
(俺は……俺が……)
人知れず噛む唇は、血の味が、して――。
「スコール」
ぴくんっ、と肩が跳ねた。どうにも感覚が狂ってしまっていて、全くの素人の気配すら掴めない。
イデアだった。
子供だけではガーデンも立ち行かない。シド・クレイマー学園長が戻るのは当然の成り行きだった。ただ学園長は戻ってくるにあたり、ひとつだけ子供達へ「お願い」をした。
それは、妻イデア・クレイマーを伴うことを許して欲しい、ということ。
当然賛否両論あったものの、最終的にはスコールがゴーサインを出し、シドとイデアはガーデンへ戻ってくることになった。
そして今、旅装も解かず、バッグを手にしたまま、彼女は柔らかな笑顔をスコールへ向けている。
「おはよう」
「おはようございます。……ご到着、早かったんですね」
何を話して良いやらわからず、スコールはおっかなびっくり声をかける。イデアはふと眉を上げ、笑みを深めて軽く頷いた。
「えぇ。海の具合も良くて、船が思ったよりも早く進んでくれたの」
「お出迎えも出来なくてすみません」
スコールが頭を下げると、イデアはゆるゆると頭を振る。
「気にしないで頂戴、そんなこと。それより、身体はどう?」
柔らかく頬に触れる指先は、優しい。飾り爪を取りのけた彼女の指先は長年の主婦業や育児でかさついてはいるが、それは紛れも無くかつての優しい「母」そのものだ。スコールははにかむように口許をほころばせた。
イデアは、きゅっと唇を噛む。
「ごめんなさい」
不意に抱き締められ、スコールは目を瞠った。
「ごめんなさい、スコール。私が貴方に余計な重荷を背負わせてしまったのね……私がガーデンを作ったばかりに……SeeDなんて考案したばかりに……!」
「…………」
「ごめんなさい……!」
スコールは、ただ抱き締められるままでいた。それしか、出来なかった。
卵が先か鶏が先か。そんな議論、確定した過去の前には何の意味もない。
この結末が予め決められていた予定調和であったとしても、未来は確かに、その時点に到るまでは確かに空白であったのだから。
芽吹いた種の未来がどんな姿をしているかを知っていても、100粒あれば100通り生まれるその結末を、誰ひとりとして知る者はない。
指先が、じんと痺れる。彼女に触れようという時は、いつもこうだ。
「……あったかいね、スコール」
その笑みは、砂糖菓子のように甘く広がる。
スコールはぎこちない笑みをやっと返す。
「俺は、あつい」
リノアはふふ、と小さな笑い声を零した。
その指先が、スコールの背筋をつぅっと撫でていく。その軌跡に生まれる微熱は、あっという間に心を焦がす焔となる。
あぁ、何てみだらな!
「スコール」
はぁっ、と零れた彼女の吐息も、微熱混じり。焔を消さず煽るだけ煽って、もう抑えが利かない。
唇が触れ合えば、最後。
「スコール、だぁいすき」
「……俺も好き、リノア」
後は、焼き尽くされるだけ。
魔女の暗殺が失敗し、少し経った頃。リノアが不満げながらも父を心配しているのを見て、スコール達はルナティックパンドラ突入前にデリングシティのカーウェイ邸を訪れた。
執事やメイドらは、リノアの無事を涙ぐみながら喜び、皆を歓待してくれた。そればかりか、幾許かの物資まで提供してくれるという。
皆が必要な物を取捨選択している最中、スコールはカーウェイへ礼を言う為に彼の執務室を訪れた。
「入りたまえ」
カーウェイの招きを受け、スコールは部屋へ入る。やや照明の落とされた部屋で、カーウェイは机に身を預けてスコールを待っていた。そのあまりにもざっくばらんな姿に、スコールは面食らって数度目を瞬かせる。
「事実上、失脚してね。暇なものだよ」
「はぁ……」
手を閃かせるカーウェイに、スコールは何とも言えず生返事を返すしかない。
沈黙が痛い。この微妙な雰囲気、礼を言うどころではない。
「ところで、君はカードはやるのか?」
「え?」
「カードだ。興味はないか」
「……いえ、ありますけど……」
興味がある、くらいでは済まない。スコールは常にデッキを携帯している程、カードを愛している。今も、吟味に吟味を重ねた自慢のデッキが懐に収められているのだ。
「私は娘のカードを持っている」
スコールの手がぴくっと動く。
カーウェイはスコールを見、にやりと笑った。
「一戦、どうだ?」
憎からず思っている少女のカードを持っていると言われて、奮い立たない男がいるのか? スコールは眦を決してカードを取り出した。
「受けて立ちます」
「何でこんなもの持ってるの!?」
「り、リノア……お前人のコレクション漁るなよ……」
「ねぇ何で? 何で!?」
リノアが指し示してみせたのは、何と「リノア」のカード。
あぁ、見つかった。スコールは頭を抱えたくなった。
「スコール?」
「それは、だな……その、大佐とバトって勝ち取ったんだ」
「…………」
リノアは改めて、丁寧にファイリングされたそのカードを眺めた。
大事にされている。ものすごく、大事にされている。
「……スコール」
「は、はい」
スコールは思わず居住まいを正した。
「一言よろしいでしょうか」
「……どうぞ」
「これ、大戦中にも持ってたの? ずっと?」
「…………あぁ」
頷くスコール。リノアは暫しスコールの顔を見つめ……やがて、はぁ、と溜息をついた。
「お父さんといい、スコールといい、何やってんの?」
「………………」
何やってんのと問われれば、可愛いお姫様の取り合いを水面下で遣り合っていたわけである。
勿論そんなことおくびにも出せないスコールは、リノアに呆れられながらも沈黙を貫くしか方策がないのであった。
ある晴れた日、スコールは車を洗っていた。といっても自分のものではなく、ガーデンの備品である黄色いワンボックスカーである。周囲にも同じ車が同じように並んでいる様は、甲羅干しの様にユーモラスだ。
足元では、スコールが率いる年少クラスお手伝い班が、スポンジでせっせと車体を磨いている。スコールは彼らの手の届かない高さを担当していた。
「ねーねー、スコールせんぱーい」
「何だ?」
泡だらけの小さな手にシャツを引っ張られ、スコールは下を覗き込んだ。
「これ、何かいてあるの?」
指差したのは車体の横っ腹、泥を落とされてやっと見えてきた「G」だった。
「『ジー』、だ」
「じー?」
「そう、『ジー』『ディー』『エヌ』」
スコールはひとつひとつ指差しながら読み上げる。幼い少年はきょろりと目を丸くしながら共に字を追う。
「これはガーデンの車だよ、っていう目印なんだ。レイの持ち物に名前書いてるようなものかな?」
「ぼくのおようふく、ママがお名前かいてくれたよ。ぼくのおようふくだから!」
「一緒だな」
「うん!」
スコールはにっこり微笑んで幼子の頭を撫で、彼の手からスポンジを取り上げた。逆の手にはホースを握る。
「さぁ、水をかけるぞ。濡れるから皆下がって!」
声を張り上げ、スコールは手を挙げる。それを見たリノアは、両手で大きな丸を作ってみせるとホースの繋がった蛇口を思い切り捻った。ざばーっ、と勢い良く水が飛び出す。
スコールはホースの口を押さえて空に向けた。子供達の歓声が上がる。わざわざ濡れに来る子供もいて、上級生の笑いを誘った。
黄色い車達の上に、虹色の橋がかかっていた。
司令室での仕事が終わり、食事をして勉強を見てもらって……などとやっていると、どうしても夜遅くになってしまう。
準SeeDになったリノアは、当然女子寮に部屋をもらっている訳だが、女子寮は消灯後には入口が閉まり外からは入れなくなる。そうなると自身の部屋には戻れない……ということで、最近のリノアはスコールの部屋に寝泊まりすることが増えていた。
今日も今日とて、ぬくぬくとスコールのベッドに寝そべるリノア。
「リノア、もうちょっと向こうに行って」
「はぁーい」
リノアがもそもそと壁際に移動すると、開いたスペースにスコールが滑り込んできた。
最初の内はソファで寝ていたスコールも、寒がり甘えるリノアに理性を打ち砕かれて以来、リノアを抱きかかえて眠ることにここ数日で馴れてしまっていた。人間、気持ち良いことにはあっという間に馴染んでしまうものである。ましてやスコールは、人の体温に久しく飢えていたから尚更だった。
スコールがベッドから手を伸ばし、最後のランプを消す。リノアは待ち構えていたかのように、彼の胸元に擦り寄った。スコールの手が柔らかく彼女を抱き寄せ、ゆっくりとその髪を撫でる。リノアはくすくすと小さく笑い、その細い腕を恋人の腰に絡めた。
傭兵という部類の男にしては繊細な指先がリノアの額をあらわにする。そこにちゅ、と口付けられ、リノアはくすぐったげに肩を竦めた。閉じた目許に唇が触れる。頬を掠めたそれは鼻先を啄み、柔らかく唇を食む。
「んん……」
互いの唇を甘噛みしあうのは、ぞくぞくするほど官能的だ。時折舌を絡めると、淫らな本能が刺激されて熱い吐息が零れる。リノアはわざと自身の柔らかな膨らみをスコールの胸板に押し付けた。自然スコールの腕で象られた空間は更に狭くなり、リノアは潤んだ瞳でスコールの顔を見上げる。
体が熱かった。どうしようもなく、彼が欲しかった。だから精一杯の懇願を視線に込め、彼を見つめたつもりだった。
しかし。
スコールは柔らかく微笑むと、彼女をしっかりと抱き込め……そのまま、居心地の良いところを定め、目を閉じた。やがて、静かで規則正しい寝息が聞こえ始める。
「…………スコール?」
リノアが遠慮がちに声をかけても、応えはない。
「スコールぅ……」
体を揺すって甘えても、反応なんて返ってこない。スコールはすっかり寝入ってしまっていた。
(また、今日も、これ!?)
最近のリノアの悩み事といえば、これだった。
スコールは共寝しているリノアを唇と指先で愛でるだけ愛でて、満足するまで愛でて、それからさっさと眠ってしまう。
キスは好きだ。撫でられるのも大好きだ。抱き締められるのも好きだし、面と向かって口にするのは憚られるが、あの固く締まった指先で背中や肩や髪を撫で回されるのは――すごく興奮する。
だ・と・い・う・の・に!
(スコールの馬鹿!)
臑を蹴っ飛ばしてみたが、「う」と呻いただけで目も開けやしない。このヤロウ、本当に男か。一応一線を越えた恋人同士で、こんなに密着していて何とも思わないの!? リノアは頬を膨らませ、ぐずぐずと身じろぎする。どうして良いやらわからない。身体が熱くて眠るどころじゃない。
「……ちょ、リノア。あんま動くなよ……」
起こされたのか起きたのか、スコールは呻くように囁いた。その腕は彼女の動きを封じるかのように、きつく力が込められる。
「早く寝ろ。明日も朝一から授業あるんだろ?」
「あるけど……」
リノアはスコールの胸元に鼻先を擦り付けた。
スコールがいくら色事に疎いと言ったって、流石にこれは誘われているとわかる。スコールは深く溜息をつき、リノアの拘束を解いてのそりと身を起こした。
「いい加減にしろ。……でないと」
スコールはリノアにのしかかり、べろりと彼女の唇を嘗めた。背筋にびりびりと官能が走り、リノアは切なさに眉根を寄せる。スコールは憮然とする。
「……そういう顔するんなら、むやみやたらに懐くんじゃない」
「そういう顔?」
「その、嫌そうな顔。したくないんだろ? 無理して合わせてくれなくて良いから」
「…………」
何となく、合点がいった。
スコールはどうやら、気を使っていたらしい。……優しいのか奥手なのかは意見が分かれるところだが。
リノアは暫し考えた後、頭を持ち上げてスコールに口付けた。
「オンナノコに皆まで言わせて欲しくなかったなぁ、スコール」
「リノア?」
「毎日これじゃ眠れないよ……続き、して」
耳に含ませた囁きは、熱い夜の始まりの合図。
ガーデンでは、SeeDランクが高ければ高いほど最初に支給される経費の限度額が高い。しかし、ランクが高ければ高いほど任される任務の難易度も上がる為、残念ながら時として足が出る。
「あーもーしんどいなー。またポケットマネーかー」
アーヴァインはぐだぐだ言いながら、自らのクレジットカード利用明細書にサインを入れる。一応ガーデン宛の領収書も切ってもらい、2枚まとめてコートのポケットに突っ込んだ。
「これでいくらだ?」
「2000少し。清算してくれると思う?」
「会計課に認めてもらえればな……」
そういうスコールも、財布の中身を改めていた。アーヴァインが手元を覗き込む。
「スコールは余剰ある?」
「ない……波動弾、高すぎるんだよ……」
溜息をつきながら、スコールは500ギル紙幣を取り出した。これが最後の高額紙幣だ。
「こういう時には、ゼルが羨ましいよ」
「あぁ……ゼルは拳が武器だもんね……」
遠い目をするアーヴァイン。スコールは支払いを終え、波動弾を手の中で転がしながら見つめていた。
「……俺、ロウモデルに持ち替えようかな」
何やらとんでもないことを言い出したスコールに、アーヴァインはぎょっと目を剥く。まさか、あの丹精込めて限界までチューンナップした相棒を……売るつもり!?
「ちょ、いくら何でもそこまで? そこまで困窮!?」
「いやライオンハートを売っ払うつもりはないって。でも対人では威力デカ過ぎるし、消耗品も馬鹿にならないし……その点、リボルバーは楽で良い。スタンダードモデルだから金はかからないし、威力も適度だしさ」
「あんた意外と……何つぅか、リスクジャンキーだね」
「ひっと聞きの悪い」
アーヴァインを小突き、スコールは弾丸をザックに詰めてショップを出る。アーヴァインはその姿を見送り、帽子を被り直した。
「……あんたは、優し過ぎるよな。ホント……」
人の命を奪うくらいなら、自身のリスクを取る。それがスコール・レオンハートだというのなら、自分達がそれを支えていくだけだ。それくらいさせてもらわないと、最高ランクのSeeDの名折れだろう?
アーヴァインは密かに決意を新たにすると、スコールの後を追ってショップを出た。
帰還したSeeDから受け取った報告書類に目を通し、対外的な最終報告書を作成するのはスコールの役目だ。任務の成否、怪我人の人数等最終的な損害の概算を書き出した
「こちらに任せてくれれば良いのに」
そうぼやくのはキスティスだ。彼女は、スコールが本来1から10までさっぱりと纏めるのが不得手なのを知っている。他者に誠実であろうとするあまり、説明が酷く下手なのだ。
「キスティスには会計と教職員の取り纏めを頼んでるだろ。皆にもいろいろ任せっきりだし……」
「えぇ、貴方が私達を気遣ってくれているのは知ってるわ。でもだからって、わざわざ苦手なことをやる? 得意な人に任せて良いのよ?」
優しく咎めるキスティスに、スコールは緩やかに首を振った。
「これは、俺の責任なんだ。俺がスケジュールを組んで派遣するんだから、責任持って最後までしないと」
「……無駄に細やかだこと」
キスティスが苦笑する。
あぁ、全くどうしてもっと楽しようと思わないのかしら、この「弟」ときたら!
「じゃあスコール、せめて出来上がった書面は私にも見せてちょうだい」
「添削する気かよ、先生」
「そうよ。何たって貴方、集中が切れると途端に誤字脱字が増えるんだもの。しっかり見ておかないと!」
わざと意地悪に言うキスティスに、嫌そうな顔をするスコール。
暫しの睨めっこの後、2人は同時に吹き出した。
暖かな日だまりの中、幸福な気持ちで眠っていた。
多分、まだ日は高い。目蓋に透ける光は強い。だけど、目を開けようとは思わなかった。気持ち良い。
何か温かいものが、脇に潜り込んできた。何か? ……いや、「何か」じゃない。ぴと、とくっついてくるのは……。
「んー……?」
小さな小さな宝物。そぅっと抱き寄せると、嬉しそうに笑ってくれる。
「一緒にねんねするかー?」
胸に載せてとんとんとん。
そうして、また眠りに、落ちて……――。
「スコール」
ふわりと目を覚ましたスコールは、自身の頭を撫でているリノアを見上げた。
何かがおかしい。眠気でまだ回らない頭が、おかしいおかしいと騒ぎ立てる。
「あれ……? リノア、ちびは……?」
「ちび?」
「俺、抱っこしてたのに……」
リノアは少し考え、あぁ、と顔を綻ばせた。
「スコール、わたし達のちびちゃんは、ここだよ」
ふらふらと宙を彷徨うスコールの手を取り、柔らかなまろみを持った自らの腹部に導く。
そこで漸く、スコールの思考が現実と一致した。
「……あぁ、そっか。夢か」
「そうだね。スコールが現実に抱っこしてたのはアンジェロの頭だよ」
リノアはそう言うと、スコールの手を胸元に戻してやり、髪を梳いてやる。
「残念?」
「少し……」
スコールはアンジェロが起き上がるのを確認してから、ころりと寝返りを打った。リノアは躊躇いなくスコールを膝に迎え入れ、幼子にやるようにその背を優しく叩いてやる。
「直に逢えるよ」
「…………」
子供に逢いたいのかどうか、それはまだわからない。わからない、けれども。
スコールは、夢の手の中から失われたものを愛おしむように、リノアの腹に頬を寄せて目を閉じた。
小さな手。小さな足。
不思議だなぁ、と思う。
こんな弱々しい、小さな小さな生命は、確かに人間の形をしているのだ。
まだ足腰が強くないこの生命は、4つの手足を使ってこちらに這い寄ってくる。
「ごとうちゃーく」
スコールが冗談めかして言うと、彼の膝に手をかけた赤子は嬉しそうに笑った。スコールは赤子に微笑みを返し、そっと抱き上げて膝に載せる。
「あーっ、レオンちゃんずるい! また先生のお膝に乗ってるー」
傍で遊んでいた年少組の子が、ばたばたと駆け寄ってスコールの背中にのしかかった。
「そりゃあ仕方ないだろう? 先生はレオンのパパなんだから」
「でもずるーい。アイシャも先生のお膝座りたい!」
「だぁめ」
「ぶー」
口を尖らせるアイシャ。スコールは身体を揺らして彼女をあやしながら、眠たそうにぐずるレオンを抱き直す。
それを見ていた男の子が、そっとスコールの肩にくっついた。更には別の子が、くすくす笑いながら脇から潜り込んでくる。
そして。
「スコール〜、お待た、せ……」
保育部に顔を出したリノアは、目の前の光景に目を丸くし……大笑いした。スコールは苦笑する。
「リノア、助けて」
子供団子を無下に出来ず、動けないスコール。リノアは尚も笑いながら、寝付いた子供達を1人ずつ丁寧に離していく。そうして皆にブランケットをかけて回り、やっとスコールは身軽になれた。
「懐かれてますねー、スコール先生」
「皆寂しいんだろうな。親元離れてる訳だし……」
ガーデンには、様々な子が集まる。国内外からの寄宿生、親が育てられず、一時保護として預かっている子、孤児……。色々な理由で親と暮らせない子供達は、保育部に来る大人達に懐っこい。
実の息子を愛するようにはいかないけれど、せめて、人並みの愛情をあげたい。
スコールは子供達を1人1人見回して、そっと頭を撫でてやっていた。