導きの光

Act.3 兆し


 リノアは想像する。
 彼はどこに行くだろう? どこにいるだろう?
 2階のデッキ? そういえば、ついこの間デッキに立ち尽くす彼に不穏な空気を感じて、引き留めるつもりで思わず体当たりをかましてしまった(そしてもちろん怒られた)。
 中庭? 木陰に皆で座ってるのは好きみたいだけど、1人でいるところは見たことがない。
 訓練施設? 違うだろう。
 想像力が尽き、そして核心を抱く。
 あぁ、きっと結局――。
「……スコール?」
 リノアは、SeeD寮のスコールの部屋を覗いた。
 部屋は暗い。だが、人の気配がする。
「やっぱり、いた」
 ブラインドを完全に下げて外界と遮断された部屋に、果たして彼はいた。ベッドに背を預け、ぐったりと床にうずくまっている。
「スコール」
 リノアは努めて優しく声をかけた。
 肩がびくりと震える。
「…………仕事」
「平気。フォローしてくれるって」
 目に見えて肩が落ちた。
「必要だって言って欲しかった? でもね、仕事する為の歯車なら要らないのよ。代わりはいくらでもあるもの」
 酷い言葉を言っている自覚は、ある。
 だがリノアは、止めない。彼に理解させないといけないから。
 皆、歯車ではなく「友人」としてのスコールを大事に思っているということを。
「…………わかっては、いるんだ」
 スコールが、ぽつりと零した。
「わかってる?」
「シュウが、何であんなこと言ったのか」
 リノアは頷き、続きを促す。
「俺だって、しんどそうな奴が居たらあぁ言うと思う。フォローするから、休めって」
「そうだね、スコール優しいもん」
 力無く頭を振るスコール。
「優しくない。優しくなんてない……出来ない!」
 スコールは両手で己の頭を掴むと、これ以上ないほど体を小さく丸めた。
 まるで――何かに怯える小さな子供のように。
「俺は優しくなんてない、蔑まれても可笑しくない人間なんだ、だって俺は、俺こそ、人を『モノ』としか捉えてなかったんだから!」
「……スコール」
「俺は、俺は怖いよ。人の目に映る『俺』が怖い。い、今までのツケを今払わされるんだ、いずれ、誰も俺の事なんて――」
 見向きもしなくなるんだ。
 その言葉が彼の口をついて出る前に、リノアはその頭を強く掻き抱いた。
「そんなこと……そんなこと、絶対ないわ。仮令そうなったとしても、わたしは絶対――」
「嘘だ」
 スコールはリノアの言葉を遮り、ぎろりと睨み付けた。彼に慣れているリノアをして、身震いするほどの冷たい視線。
「他人のリノアが、俺といてくれる訳無い。家族にすら見捨てられる俺なんかといてくれる訳無い! 嘘つき、本当にそうなら今すぐ証明しろよ、俺を愛してくれよ!!」
 八つ当たり、だったのだろう。彼自身の今までを鑑みた上での不安を、ただ有りのままリノアにぶつけたスコール。
 リノアは、哀しげに目を細めた。
『家族にすら見捨てられる俺なんかといてくれる訳無い!』
 この人はずっと、こんな思いを抱いて生きて来たのか。人に心を開かず――開けず――、歪んだ心のまま他者を攻撃してきたのか。
 あぁ、何と幼い鬱屈! だが、リノアに語る言葉も資格もない――何だかんだといって充分に愛されてきた彼女には、人を愛することの出来ない彼を、理解し得ないから。
 リノアはスコールの頬を、両手で包み込んだ。
「じゃあ、愛してあげようか」
 くふ、と蠱惑的に微笑うリノアに、スコールはぞくりと身を震わせた。
 これは歓喜か、それとも恐怖か。彼が理解する間もなく、リノアは噛み付くように口付けた。
「……っふ……」
 息苦しくて、スコールは喘ぐ。
 口付けというものは、とかく呼吸のタイミングが難しい。普段主導権を握っている側が不意打ちを喰らっては、尚更だった。
 スコールは頭を振って逃れようとする。
「何を」
「何って、キス」
「止せよ、こんな……」
「愛して、って言ったじゃない」
 意味が違う! だが、言葉にならない。終始口を塞がれていては、拒絶の言葉もままならない。
「やっ……んぅ」
 怯えを含んだスコールの声。リノアはくすりと微笑う。
「スコール、可愛い。女の子みたい」
 スコールの頬にさっと朱が走った。
「リノア、止めてくれ。そんな気分じゃないし、時間でもないだろ」
 彼にしては珍しい、懇願の色が垣間見える。
 ――が。
「い・や」
 いっそ清々しいほど素敵な笑顔で、リノアはスコールが着ているSeeD服の胸元を(はだ)けていた。
「ん、もぅ。スコールってば律儀過ぎ」
 リノアは不満げな顔をしながら中のカッターシャツのボタンを外し、その奥の肌へと口付ける。
「リノア!」
「うるさいっ」
 言葉を封じ込めようと、リノアは唇を重ねて塞ぐ。「A」の発音をしたばかりの咥内に舌を押し込んだ、やや乱暴なディープ・キス。
「んっ……ん……っ」
 リノアの指先がスコールの胸元を這い回り、その刺激で固く立ち上がりつつある突起を弄り始める。
 びくついたスコールが腰を浮かせた。ベッドの上に逃げようとでもいうのか――その機を逃さず、リノアは実に器用に、彼をベッドへ押し上げた。
 かちゃり、と腰のベルトが音を立てて外れる。リノアは1度唇を離すと、勢いよくシャツを左右に広げた。
 薄暗い室内で、彼の白肌は浮いて見える。
 それは、年頃の少年にしてはあまりにも不似合いな色彩だった。普通、多少興奮すれば頬は赤らむだろうに。肌も色付くだろうに。
(痩せた……)
 リノアは心を痛める。忙しいから、だけでは済まされない。
(どうしたら、あなたを助けられる?)
 上から、下まで、眺め回すリノアの肩を、スコールはそっと押した。
「止め、て……くれ」
 弱々しい言葉。最早、哀願のような。
 リノアの心がぐらつく。願いを叶えてあげたい。だが、この機を逃せば――。
「だから、嫌だって言ってるでしょ。わたしがあなたを抱きたいの、あなたの意思は関係ない」
 婉然と微笑んでみせるリノアの姿に、スコールの瞳が哀しげに揺れる。
 リノアは自身のネクタイを外すと、するりと床に落とした。
 そしてスコールの上着に手をかける。だがスコールは往生際悪くリノアの手を払いのけようとしていた。
「ん、もう!」
 焦れたリノアは、スコールの後ろ頭を捉えると、彼自身の膝に押し付けた。
「……っ!」
 無理な動きに身体が軋む。だが、頭を上げられない。今スコールの目に映るのは、リノアの健康的ですべらかな太腿だった。彼女は己の膝で、彼の肩を押さえ付けているのだ。
 リノアは上着を脱がせて放り出すと、カッターシャツの肩を落とした。たわんだ布地が、両肘に溜まる。
「り、のあ」
「愛してあげるから、大人しくして?」
 リノアはシャツを縛り上げてスコールを拘束すると、その肩を両手で突き飛ばしてヘッドボードに押し付けた。
 上半身を晒したしどけない姿。リノアはそんなスコールの膝を跨いで彼の顎を掴み上げる。
「本気で嫌なら、蹴り飛ばすなり何なりして逃げたら良いじゃない。『伝説のSeeD』さん?」
 彼が1番嫌う呼び方をわざと使って、挑発する。彼は意外と素直な性格をしているから、挑発は聞き過ごせないはずだ。
 しかしスコールは反抗せず、恨めしげにリノアを睨むのみ。
 リノアはゆるりと顔を近付け、口付けた。

 何分、いや何時間過ぎた? ぼやけた頭で、スコールは思う。今、何度目の絶頂を味わわされたのだろう?
 ――何時から、情を交わすことに精神的な苦痛を感じるようになったのだろう? 最初は、ただただ嬉しかった。彼女と繋がりを持てたことが。
 だがそれも、最初の数度だけ。
「大好きだよ、スコール」
 それは何?
「愛してる」
 それは、どういう意味? そう思いながらも、スコールはリノアを拒絶しない。拒絶出来ない。リノアを大事に思うから、彼女の求めには応じてきた。
 何故?
 何故自分は、彼女を拒絶出来ない? その答えはすぐに見つかった――見捨てられたくないからだ。
 では、何故そんな思考に至ったのだろう。
 判らない、もう頭が回らない。
「……ちょっと、休憩しようか?」
 休憩、か。
 まだ、狂宴は終わらないらしい。
 彼が泣いて哀願しても、頬を舐めて宥める振りして、その実攻め立てる彼女なのだから。
 だから多分、完全に寝入る寸前の声も、胸に抱き寄せる腕の感触も、幻だろう。
「……ごめんね、スコール。本当は、こうしてあげたかっただけなんだ」

「…………」
 スコールが目を醒ましたとき、リノアは半身をシーツに沈めたまま身を起こしていた。
 どうやら、電話をしているらしい。内線電話を使っているのかと思ったが、よくよく見れば、ガーデン内でのみ通用する無線電話だった。便利な代物だが、スコールはあれが苦手だ。嫌いと言っても良い――あれが鳴ると、大体任務が舞い込んでくる。
 リノアはスコールが起きたことに気付かない。
(やっぱり、あれは夢か……)
 期待はしていなかった、起きるまで抱いていてくれるとは。
 スコールは目線をシーツに落とした。 寂しい。彼が起きているとは気付いていないのだから仕方ないとはいえ、ちょっとくらいこちらを見てくれても良いのに。
 突然、彼女の手はふわりと彼の頭に置かれた。
「……うん。うん、わかった。もう切るね、スコール起きたし。じゃあ」
 スコールは目を丸くした。自分は声を出してないし、動いてもいない。そしてリノアは、こちらを見ていなかった。
 ぱくん、と気の抜けた音と共に、無線電話が閉じられた。
「……『何でわかったんだ?』って顔してるね」
 振り向いたリノアの顔は、悪戯っぽい笑みを湛えている。
「…………」
「何でだろうね……わたし、スコールが起きるとわかるんだよ、気配で。まるで、赤ちゃん育ててるお母さんみたい」
 リノアはそう言うと、無線電話をサイドテーブルに置いてスコールの目の前に横たわった。
 そして、優しいキスをひとつ贈る。
「ごめんね、しんどいね」
 泣き腫らした薄赤い目元にそっと触れ、視界にかかる前髪を撫で付けるその指は優しい。
 スコールは、戸惑った。先程――どれくらい寝ていたのかはわからないが、スコールの感覚的には「さっき」くらい――の彼女とは、全く様子が違う。
 今目の前にいるのは、普段の優しい彼女だった。
「……信用、なくしちゃったかな……当然だね。スコールがわたしを傍に置いてるの、わたしがスコールを傷付けたりなんかしないって、思っててくれたからだよね。裏切って、ごめんなさい」
 自嘲するリノアに、スコールは薄く唇を開く。だが、何と言って良いのかわからず、唇はそのまま閉ざされた。
「……スコール」
 リノアは、やや上目使いでスコールを見た。
「あのね……もし、まだ嫌われてないんなら、ちょっとお話したいな。スコールと、スコールのこと」
「…………」
 リノアが何を言いたいのか、スコールにはすぐにわかった。
「……アーヴァインに聞いたのか」
「少しだけ」
 気まずげに頷くリノア。
 スコールはリノアから視線を外した。きっと、彼女は失望しただろう。スコールの視界はあっという間に歪み、冷たい涙が枕を濡らす。
「スコール、何が辛いの? 何が苦しいの? 良ければわたしに聞か……」
「断る」
 ガラス玉が、剣呑な光を宿す。
「アーヴァインから聞いたんだろ。だったらそれが全てだ」
「スコール、わたしはあなたの口から聞きたいの。あなたの言葉で、あなたの痛みを教えて欲しいのよ」
「…………」
 何故、彼女はこうも自分に踏み込んでこようとするのだろう。放っておいてくれれば良いのに――そうしていてくれたなら、いくらでも彼女の望む「スコール・レオンハート」を演じてやるのに。
 不意に、リノアは盛大な溜息をついた。スコールの肩がびくりと跳ね上がる。
「じゃあもう、良いわ」
 うんざりした口調とベッドの軋む音に、スコールは絶望を感じた。
 ――見捨てられた。もうおしまいだ――!
 だが。
「……!」
 ぎゅうっ、と。
 真っ白になった頭が漸く知覚したのは、温かい胸と強い腕。
 また、要求されているのか。スコールは逡巡し、そうっと唇を寄せた。
「んっ」
 ぴりっとした軽い痛みに、リノアは呻く。そして、スコールの頭を強く抱き篭めた。
「もう良いの。良いのよ」
 髪をゆっくりなで、額の傷痕に口付ける。
「スコール、話せないのなら今はそれで良いわ。だけどね、言わせて? わたし達、あなたがわたし達に頼ってくれるのを待ってるのよ」
 抱き締められたスコールが、身じろぎした。逃げたがっているように。
「皆、あなたが好きなのよ。だからあなたの助けになりたいの」
 リノアは囁くような声で、そっとスコールの耳に言葉を含ませた。
「……好き?」
「うん」
「好意っていうのは、もらったらそれに応えないといけないのか?」
「……えぇと」
「好意を向けられてるからって、全部見せないといけないのか?」
「そういう訳じゃないよ」
「でも、リノアが言ってるのは、そういうことだろ。これだけ好意を向けてるんだから、俺に相応の対応をしろと」
「…………」
 確かに、その気持ちがなかったとはリノアには言えない。だがそれだけしかなかったかと言われれば、答えはNOだ。
 長く、沈黙が流れる。
「ごめん、言い過ぎた」
 スコールが、ぽつりと呟きを零した。
「……リノア、さっき『好き』とか『愛してる』とか言ってたけど」
「……うん」
「皆は、そういう言葉で簡単に表現出来て、それを事もなげに理解してしまうんだろうな。俺には……全然わからないのに」
 それが酷く寂しげで哀しげで、リノアは腕により力を込めた。

 大分長いこと経ってから、スコールは漸う口を開いた。観念したのか、それとも気を許してくれる気になったのか、それはリノアにはわからないが。
 アーヴァインから聞いたと思うけど……と、スコールはリノアへとあの日見たものを話す。
 雨、暗い空、大きな「ひと」。
「首のラインを辿れなかったみたいだから、多分、髪が長い人だったんだろうな」
「お母様?」
「いや……母親が居ないから、孤児院にいたんだろ? それに、再現された記憶が正しければ、その人は男だ」
「じゃあ、ラグナさん?」
「さぁ」
 急に、つっけんどんな声が出た。
「そうだとしても、認めない」
「どうして……?」
「……あいつは、俺に見向きもしなかった。何も言わなかった。『全部終わったらゆっくり話す』って言った癖に、俺を置いて……っ!」
 蒼眸に、じわりと涙が滲む。
 リノアは、慰撫するように彼の髪を撫でてやる。
 ――あの寂寥の正体は、これか。
 認めない、と口では言いながら、彼は父親の愛情を渇望している。だが離れていた時間が長過ぎて、すれ違いが多過ぎて、少年は自分へと注がれる愛情があることに気付けないのだ。
 現にラグナは、スコールを愛している。少なくともリノアの目にはそう映る。
「愛と友情、勇気の大作戦」完了後、意識が戻らない瀕死の彼を1番に心配したのはラグナだった。スコールがそれを知らないのは、彼が眠っている間にラグナが帰国を余儀なくされたから。
(何てひどいすれ違い)
 リノアには、どうすることも出来ない。だから彼女はスコールの髪を撫で続ける。
 急に、スコールがぶるりと頭を振った。リノアは驚いて手を止める。
「……それ、止めて」
「?」
「俺はどうも、リノアを母親として見たいらしい。甘えたくなるから、やめてくれ」
「……良いよ? わたし、ママ代わりになっても。それでスコールがちょっとでも幸せになれるなら」
 リノアの優しい言葉に、スコールは静かに(かぶり)を振った。
「近親相姦だろ、それじゃ」
「血、繋がってないよ?」
「それでも、精神的な母子相姦に代わりない。いずれ、破滅を呼ぶだろう。それがただの破局で終わればまだ良い……でも、互いに互いを……滅ぼす結果にも、なりうる。俺達の場合」
 少し口ごもったものの、「最悪の結末」を言い切るスコール。
(それで、最近は誘っても乗り気じゃなかった訳ね)
 漸く納得し、リノアは頷いた。そして、あっけらかんと宣言する。
「よし、じゃあ待ちましょう! スコールくんがリノアちゃんをちゃんとオンナノコとして見られるようになるまで」
「……ごめんな、付き合わせて。俺がもっとマシな奴なら良かったんだけど」
「ううん、そんなことないわ。それに、待つのも楽しいものだもの」
 リノアはにっこりと笑ってみせる。
「きっと素敵に変わっていくんだと思うんだ、スコールは。それを傍で見られるなんて、役得だよね〜」
 ……こんなときに茶化す辺りがリノアだな、とスコールは苦笑した。だが、彼にはそれが有り難い。ともすれば暗く沈みがちな自分の心に明かりを燈してくれる彼女は、正しく彼の「導きの光」(ポーラー・スター)だ。
 しかし、気恥ずかしいのには変わりない。
「…………(勘弁してくれ)」
 スコールは頭を抱えようとして、ふと思い出した――自分の両腕は、まだ縛り付けられたままだ。これでは、頭を抱えることも……抱き締めることも出来ない。代わりに、彼は枕に突っ伏して紅くなっているだろう顔を隠した。
「……あ、ごめん。すっかり忘れてた!」
 スコールが俯せになり、漸く現状がリノアの目に入ったらしい。彼女は慌てて身を起こすと、スコールを解放した。
 その時。
 TRRRR……!
『っ!』
 タイミングの良すぎるコールに2人して肩を聳やかせ、苦笑いで顔を見合わせる。
 リノアはサイドテーブルに置かれた無線電話を取った。
「ハーティリーです」
『あ、リノア〜?』
「セルフィ?」
 リノアはきょとんとした。先刻の電話から、さほど経っていないのに、またコール?
 スコールは無言で顔を寄せ、コール内容を聴こうとしている。
「どうしたの?」
『うん、あのね、いいんちょにちょっと言いたいことがあって。ダメ?』
「スコールに? ちょっと待ってね」
 スコールは釈然としないながらもリノアから電話を受け取った。
『あのね、いいんちょ……スコール。えっと〜……とりあえず、返事くれなくて良いから、聴いててね。
 あのね、スコール。あたし達、スコールが大好きなんだよ。だから、スコールが元気ないのとか、すっごく気になるんよ。休ませてあげたいって思う。でも、今スコールおらへんと組織が回らないってのも現状なんだよね』
 セルフィはそこで一旦言葉を切った。
『せやから、スコール。お願い、あともうちょっとだけ力貸して欲しいんよ。ほら、誕生日もうすぐやろ? あそこまで。そしたら、あたし達が意地でも夏休みプレゼントするよ。だからうんと休んで? で、元気になったいいんちょが、またリノアと並んでるとこ見せて? 良い?』
 スコールは、セルフィの言葉が自分の胸をゆっくり温めていくのを感じた。リノアがその背を撫でさする。
「…………ありがとう」
 電話の向こうで、セルフィの息を呑んだ気配が伝わってきた。慣れないことをしたと唇を引き結んだスコールは、ぽいっとリノアへ無線電話を放る。リノアは向こうとひとしきり話をしてから、通話を終了した。
「何て?」
「ん、『また明日』って」
「了解」
 スコールは薄く微笑むと、大きく深呼吸した。そしてふと、自身への違和感に気付く。
「……何か、腹減ったな」
「あぁ……スコール、お昼から何も食べてなかったもんね。運動したからかなぁ〜?」
 リノアが言外に含ませた意味に気付き、薮睨みするスコール。
「ふふっ……ちょっと待っててね。誰かさんのおかげでチーズケーキがまだ残ってるから」
 リノアはスコールのシャツを羽織ってベッドを出ると、ついでとばかりに脱ぎ散らかした服のいくつかをブラウスに包んで小脇に抱える。
「おい、下着……」
「やだ」
「やだ、って」
「スコールはそこにいなさーい」
 リノアは悪戯っ子のように命令するとぱたぱたと寝室を後にした。ややあって戻ってきたときには、その手にケーキを載せた皿とフォークを1本、それに水が半分ほど残ったペットボトル。
 何をする気なのか手に取るようにわかって、スコールは盛大な溜息をついた。
(……まぁ、いっか)
 餌付けされている雛鳥のように口に運んでもらいながら、スコールは恥ずかしさと幸福感の狭間を行き来する。
「美味しい?」
 リノアが首を傾げて問うと、スコールは小さく顎を引くように頷いた。
 リノアは、この返答が不満なようだ。彼女は少し考えてから、もう一度問いかけた。
「じゃあ、どんな味がする?」
 スコールはきょとんと瞬く。
「……チーズ」
「うん、チーズケーキだもんね。それわからなかったら冗談抜きに病院行きだよ」
「…………あと、塩味」
「今回は土台にクラッカーを使ってみたんだ。他には?」
「………………」
 スコールは考えた。他に、感じられた味? 普通、チーズケーキというものは何が入っているのだろう? ケーキなんだから、甘いのは当たり前。じゃあ何? 菓子については食べる専門のスコールには、知恵もない。
「……こんなちょっとのかけらでわかるかよ」
 ついぞわからず、スコールは悪態をついて頭を掻く。リノアはくすくす笑い、ケーキを大きめに欠いて差し出した。
「はい、あーん」
 自棄気味に口を開いて迎え入れるスコール。
 そのとき、ふわりと何かが香った。胸を温めるような、柔らかで懐かしい香り。
(……懐かしい?)
「スコール?」
 不可解な印象に固まったスコールを、リノアが覗き込む。
「やっぱり、わかんない?」
「……シナモン?」
「大正解!」
 リノアは輝くような笑顔で手を叩いた。ご褒美だとまた口に入ったケーキは、もうスコールに何も感じさせない。
 ケーキがあらかた2人の腹に収まった頃、スコールが不意に口を開いた。
「……さっき、何か思い出しかけたんだ」
「えっ、何?!」
「わからない……わからないけど、何か懐かしい感じがしたんだ……」
 戸惑いがちに、スコールは言った。
 もちろん、こんなことを聞かされたリノアは続きをせがんだ。だが、いくらスコールでも既に霧散してしまったものを説明は出来ない。
「シナモンに何があるっていうんだろうな」
「何だろうねぇ……気になるけど、はい、最後の一口」
「ん」
 ケーキを平らげた2人は、さっと一風呂浴びてベッドに潜り込んだ。時間はまだ宵の口と言える時間だったが、今日は年少クラス並に早く寝ようという、半ば冗談のような提案が採用されたのである。
「何か、落ち着かない」
 リノアに腕枕をされているスコールは、小さな声でリノアへ囁いた。リノアはくすくす笑い、ゆっくりスコールの髪を梳く。
「そうだね、いつも逆だもんね」
 そう、今日は立場――この場合は、「寝場」か――が逆だった。
 普段は、リノアが壁際で、スコールが抱き締めて眠りに就く。だが今日は逆で、スコールが壁際で、抱き締められている。
 リノアは子供をあやすように、指先でゆっくりとリズムを刻み始める。
 スコールは甘えるように背を丸め、目を閉じる。やがて、その呼吸は穏やかな寝息に転じていった。

 ぱたり、と手が止まった。
「……わたし、何も出来ないのかな」
 久しぶりのような静かな寝顔を眺めながら、リノアはぽつりと呟く。
(あなたの助けに、なりたいんだけどな……)
 ただ抱き締めることしか出来ないのだろうか。
(何か、わたしに出来ることは?)
 リノアはスコールの頭をしっかりと抱いて、目を閉じた。

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