暖かな闇の中で、眠っていた。
 長い間、そうしていた気がする。こんなに安らいだ気分で眠るのはいつ振りだろう?
 死が、近しい筈だった。だが、こうやって眠ることに不安を感じていない自分がいる。
 何時しか、雪が降り始めた。
 雪が、ゆっくりと自分の身体を覆い隠していく。不思議と重さは感じない。或いはこれが末期の水か、そんなことを思う。
 しかし雪かと思っていたそれは、決して冷たくはない。むしろ温かく全身を覆い、闇から護ってくれるようだった。
 それは、何かに――いや、誰かに似ていた。
(……リノア?)
 ふと、さわさわと静かなざわめきが周囲に感じられた。
 もっと、聞きたい。そう思っている内に、辺りが、明るくなって――。

 ごく当たり前のように、スコールは目を開けた。
 最初に目に入ったのは、真っ黒の糸の束のようなもの。スコールはその源を探して、そっと目線を上げた。
 入院着を着たリノアが、枕元に俯せている。目は閉じていた。呼吸がゆっくりしているから、眠っているようだ。
「……、……」
 スコールはリノアを呼んだ。上手く声は出ない。しかし、その睫毛はふるりと振るえ、まだ眠そうな黒瞳を顕した。その目が、恐る恐る、といった風情でこちらに向かう。
「あ……っ」
 一転、笑顔になるリノア。
「リノア?」
「ラグナさん、スコールが!」
 ラグナに呼ばれ、感情のままぱっと立ち上がる彼女の姿に、スコールはいつもの彼女を見た。視界が滲む。目瞬きをひとつすると、ぽろり、と雫が滴り落ちた。
「きゃ、わ、スコールどうしたの?! どこか痛いの? 苦しいの?」
 リノアは大いに慌てた。涙を零すほど辛いのだろうか? だが看護士は医者を呼びに行ってしまった。ここにいるのは、その方面にはシロウトの身内ばかりだ。気を反らせてやればまだ感覚的にマシにはなるだろうか。そう考え、リノアはそっとスコールの頬へ手を触れた。
(……あ)
 温かい光が、目の奥でフラッシュする。いつもの「色」ではない、ただ「光」としか言えないものだった。歓喜、安堵、情愛――そんなものがないまぜとなって、リノアに流れ込んでくる。
「スコール」
 リノアは愛おしげに目を細め、髪を撫でる。スコールはごく淡く、ぎこちなく微笑した。
 事件の規模に反して死者が0、そんな「奇跡」が確定した瞬間だった。



騎士の矜持

Act.7 嵐の前の日


 一週間が、経った。
 今朝未明、国際会議は一時中断となることが決定した。表向きには、テロ事件の後処理及び出席者の安全確保に時間がかかるというのが理由になっている。ドールの国営放送では、朝からその話題で持ち切りだ。何も知らないコメンテーターは、無邪気に警備体制の不備を指摘してはゼルやセルフィの怒りを買っていた。
 リノアは仲間達が持ち込んだ小型テレビが目を外し、スコールを見遣る。
 スコールは、眠る。
 俯せられ、点滴やカテーテルの繋がれた彼の身体は、やや痩せてしまっていた。元からあまり丈夫ではないその身体が冷えないように、リノアはブランケットを肩まで引き上げてやる。
「…………、」
 小さな吐息が零れた。だが、目醒める様子はない。
(子供みたいな顔しちゃって)
 リノアの胸に、慈しみの気持ちが溢れる。
 早々に退院許可の下りたリノアは、実は病院に寝泊まりする理由がない。故に彼女は、素直にSeeD用に借りたホテルへ戻ると申し出ていた。
 しかし、そうは「仲間」(とんや)が卸さなかった。
「リノア、あなたにはエスタ大統領子息の護衛をお願いするわ」
「VIPだけどSeeDからこれ以上の人員裂けないからね〜」
 ……という風に、リノアは新任務を下された訳である。
 とはいえ、完全看護の実情では暇を持て余すばかり。リノアが出来ることといえば、身体を拭いてやることと関節を動かしてやることだけで。しかしそれだけでも、リノアの心は穏やかになった。いつの間にか頬に笑みが浮いていて、巡回に来る看護師達にからかわれることはざらである。
 ある時、珍しくひかえめなノックがあった。
「あ、はいっ」
 リノアが応えを返すと、からからと小さな音と共に引き戸が開かれた。
「こんにちは、リノア」
 病室へ入ってきたのは、たおやかな黒髪の女性、イデア・クレイマーだった。
「マンマ・イデア! 来て下さったんですね」
「可愛い『息子』のことですからね」
 2人は軽く抱き合うと、連れ立ってスコールの枕元へ並ぶ。イデアはそっとスコールを覗き込み、慈母の笑みを浮かべた。
「思っていたよりも顔色が良いわ。良かった……あら?」
 目瞬くイデア。彼女はそっと指先をスコールの喉元へ差し入れ、目に付いたものを捉えた。シャラ、と銀の細工が繊細な音を立てる。
「リノアの好みそうなペンダントね?」
「あ……それ、わたしのなんです。スコールに買ってもらったやつで……その、お守りに、と思って……」
「まぁ、そうなの」
 恥ずかしがるリノアを微笑ましげに見遣り、イデアはペンダントを検分する。素朴な飾りのペンダントは軽やかな音の割に、随分と黒ずんでいた。覗いていたリノアが顔をしかめる。
「あ、やだ。もう真っ黒」
「綺麗にしてあげないとね」
 イデアはくすっと微笑い、ペンダントの鎖を辿る。それが擽ったいのか、スコールは身揺いだ。ほんの僅か、瞼が持ち上がる。
「……あぁ、ごめんなさい。起こしてしまったわね、スコール」
 イデアはそっと謝罪の言葉をかけ、スコールの髪を撫でた。スコールは首を横に振る代わりに、口の端をほんの微かに引く。
 リノアは静かに椅子を勧め、スコールにかけたペンダントを外した。そのまま少し離れた窓辺でペンダントを磨き始めたのを見て、イデアは大人しく腰掛ける。
「貴方が重傷だと聞いたときは驚いたわ」
 少し低めの声に、スコールは目を伏せる。イデアはスコールの髪に触れた。
「心配しましたよ」
 ごめんなさい、と唇が動いた。イデアはふと笑み、ゆっくりと髪を梳いてやる。
「本当にね、ぞっとしたわ。一時は本当に危なかったと聞いて……とても腹が立ったし、悲しかった。何故だか、わかる?」
 スコールの目が、ちら、とイデアを見、すぐに離される。
「心配、かけたから……」
 掠れた声が、小さく言葉を紡いた。
 イデアははっきりと頭を振る。
「貴方が、自分を大切にしてくれないから」
「…………」
「スコール、貴方は独りで生きている訳ではないでしょう? 貴方には大切に想っている人がいる、貴方を大切に想っている人がいる、それを知らない訳ではないでしょう?」
 厳しく眇められたイデアの目の前で、スコールの視線が泳いだ。
「今、貴方はリノアを探したわね? 彼女は貴方をとても大切にしている、それを知っているのでしょう? 当たり前に傍にいると思う程大切な人なら、どうしてその人を悲しませるようなことをするの」
 窓際のリノアから、スコールの顔は見えない。しかし代わりに見えるイデアは、いかにも「怒っています」という顔をしていた。リノアは手を止め、息を詰めて2人を見守る。
 スコールは微かに身揺ぎした。
「……ごめん、なさい」
「謝るだけなら、どんな幼い子でも出来るわ。次からはどうしたら良いのか、それをよくよく考えなさい」
「はい……」
 イデアはふう、と息をつき目を閉じる。次に目を開けたときには、穏やかな笑みが含まれていた。
「人を叱るというのは、なかなかしんどいものですね。可愛い子だと特にそう。甘やかしてしまいそうで、大変だわ」
 イデアの手が、そっとブランケットの具合を直し、とんとんとん、とあやすように肩を叩く。
「あのね、スコール? 実を言えばね、私は誇らしかったのよ」
 スコールは不思議そうな顔をした。イデアは本当に愛おしそうに微笑む。
「確かに、やり方はまずかったと思います。でも、貴方がお父様を庇ったんだって聞いて、私は嬉しかった。こんなにも優しい、真っ直ぐな子に育ってくれた、って」
 親ばかかしらね、と笑うイデアの顔は、間違いなく「母」だった。
「奪うばかりで何もあげられなかった私が傲慢なことを言うと思うけれど……貴方は私の、自慢の息子よ。スコール」
 スコールは顔を俯せ、そしてリノアの方を向く。目が合ったリノアが微笑むと、スコールはとてもとても気恥ずかしそうに肩を竦めて笑ったのだった。

 イデアはひとしきり2人と話を堪能し、病院を後にした。今日はドールに泊まり、明日の朝バラムへ帰るのだという。
 再び2人きりになった病室。
 リノアは磨き上げたペンダントを再びスコールの首へかけた。
(早く、良くなりますように)
 リノアの願いが込められたペンダントは、不思議なことに通常では考えられない程早く黒ずんだ。果たしてこれはどういった現象なのかと首を傾げるも、誰も、当のリノアすらも説明がつかない。しかし突出した異常がある訳で無し、強いて言えばスコールの回復が予測よりも早いことくらいで、これはむしろ喜ばしいことである。
 スコールの身なりを少し整え、リノアはベッドの傍らに腰を落ち着けた。点滴で繋がれた腕をそっと摩ると、スコールがふっと目を開けた。
「どうした……?」
「んーん」
 リノアは微笑んで頭を振る。ただ触れたかっただけで、行動に特に意味はない。
「……不思議、だなぁ」
 溜息をつくように、スコールは静かに囁いた。
「何が?」
「『末期の水を飲む程の時間もない』って、言われたのに」
「誰が言ったのそんなこと?!」
 リノアはヒステリックな声を上げた。あからさまな「怒り」に、スコールはほんの少し竦む。
 リノアの表情が、「戸惑い」に変わった。
「あ、ぁ、ごめん」
「…………」
 スコールは、じっとリノアを見つめる。
「……リノア」
 躊躇いがちな呼びかけに、リノアは申し訳なさそうな顔でスコールを見た。
 スコールは、考える。その表情は、何を意味するものだ? 勿論、状況から推し量ることは出来る。だが、それが正解である自信は、何時だってない。
「リノアは、俺のことよくわかってくれてるよな……でも俺は、リノアのこと、ちゃんとわかってやれてない」
 寂しいとは思う。だが、男である彼には表情の違いによる感情変化は読み取りにくい。ましてやスコールは今まで人と積極的に関わることはなかった。己の感情にも鈍感になっていた彼は、感情の機微に疎いのだ。
「だから、な? 教えてくれ。リノアが今、何を思ってるのか……俺に、どうして欲しいのか」
 スコールは真摯な声で囁く。リノアは、俯いた。
「リノア」
 促すように優しく呼びかけるスコール。
「………………の」
「うん?」
「怖かった、の」
「……ん」
「スコールが死んでしまったら、と思ったら、ぞっとした」
「うん」
「こ、怖かったの、本当に」
 すん、と鼻を鳴らす音がした。
「……何処にも行って欲しくない。ずぅっと、隣にいて欲しいの」
「うん」
「っあ、危ないことして欲しくないの本当は! だけどスコールはSeeDだもん、言ったって行っちゃうじゃない、危ないところに」
「……うん」
「だ、だったらせめて傍にいさせて欲しいよ。でもスコール、わたしを連れていってくれない……SeeDなのに、わたしだってSeeDなのに!」
「うん……そうだな。ごめん、な」
「ホントだよっ! いつ悲しい報せが届くかなんて怖い思いして無傷で待ち続けるより、一緒にいて恐い思いして傷付く方がずっと良いよ!」
 感極まったリノアは、両手で顔を覆ってスコールの枕元に臥せた。
「馬鹿だってわかってる。けど、だけど、スコールがいないとわたし、生きていかれないんだよ……!」
 呻くような震える声に、スコールは彼女が泣いているとはっきり理解出来た。甘い痛みに心が騒ぐ。源初の衝動に、胸が疼く。
「……馬鹿」
 零した声は、自分でも驚くほど甘く。
「ばぁか」
 慈しみを込め、スコールはゆったりとリノアの髪を撫でる。
「お前、もうちょっと自分だけでも生きられる努力しないと」
「やだ。無理」
 俯いたまま、リノアは頭を振る。
 全く、何もしてみない内からこれか。スコールは苦笑して嘆息した。
「じゃあ俺、頑張って長生きしないといけないな。お前を置いていくには、心配事が多すぎる」
 泣き濡れた瞳が、漸くスコールを見た。スコールの手が、そっとリノアの頭へ力を込める。
「もっと、こっちおいで……」
 閨で彼女を甘やかすときのように、しっとりと濡れた甘い誘いの声。リノアは素直に頭を寄せた。スコールの指先が、彼女の髪に絡む。
「良い子だ……畜生、早くお前を抱きたいよ……」
「スコール……」
 率直なその言葉に、リノアはくす、と微笑んだ。そして、誘われるままに顔を、寄せて……。
 そこに再びノックがあった。
「やほ〜、スコール、リノア☆」
「見舞いだぜー!」
「具合、どうだい?」
 わらわらと顔を見せたのはいつもの4人。リノアはぎくりと肩を聳やかせ、上半身を跳ね上げた。
「……あら、お邪魔だったかしら」
 いかにも楽しげなキスティスの声。
「お前ら、わざとか……?」
 スコールは盛大な溜息をつく。普段の彼らしい言葉に、皆はぱっと笑い声を上げた。キスティスはほっと息をついた。
「身体、大分良さそうね」
「まぁな。皆は? アーヴァインの肩とか」
 問いかけられたアーヴァインは、右手だけをひらめかせる。
「ご覧の通り、って感じかな〜。亜脱臼状態なんで、暫く動かすな、ってさ」
「じゃあ、当分は内勤だな」
「アンタもね。腰骨にヒビいってるんだろ?」
「とは、聞いたな。熱で少し頭ボケてるのと、痛み止めのおかげで全然実感ないんだけど」
「その調子で動くんじゃねぇぞお前……」
 存外以上にけろっとした様子に、ゼルは呆れた。大分回復はしているようだが、果たして彼の性格上喜ぶべきか、不安がるべきか。
 スコールはふっと微笑って身を起こそうとした。
「試してみるか……っぅ!」
「スコールっ」
 リノアが慌ててその身体を押さえた。力の篭らない腕はかくんと折れ、スコールは結局シーツの上でうごめくのみとなる。
「っつぁ……」
「まだ無理だよ! 変に動かないで」
 スコールはとても悔しそうに顔を歪めた。その心中は察するにあまりある。若獅子が、一時的にとはいえ完全に牙を折られたのだ。畜生、という小さな呟きは、皆が聞かなかった振りをした。
 少しの沈黙を共有した後、キスティスが口を開いた。
「……会議は、週明けに再開されることになったわ。貴方がそういう状態なんで、今度は『魔女リノア』本人が召喚されることになる見通しよ」
「また、時間ないな」
 苦々しげに吐き捨てるスコールに、キスティスは優しく微笑む。
「安心して。私達がバックアップするから」
「SeeDが?」
「バラム・ガーデンが」
 スコールは改めてキスティスを見た。そしてゼルを、セルフィを、アーヴァインを、リノアを順に見つめ、最後にもう一度キスティスを見る。
「リノアから聞いたでしょう? バラム・ガーデンは、最後まで貴方の、貴方達の味方だと。私達魔女の騎士団が、騎士団長たる貴方に代わり、魔女リノアを護ります」
 キスティスは誇らしげに宣言した。皆も頷き、安心させるように不敵な笑みを見せる。
「……そうか」
 スコールは、ただそれだけぽつりと呟いて返した。




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