小さな部屋に、音が響く。
柔らかな、甘く明るいヴァイオリン。
それが途切れたのは、こつこつ、という小さな物音だった。
「……?」
それは廊下からではなく、窓からの音。
ワクを叩く音だ。
「誰……?」
香穂子はおっかなびっくり、ヴァイオリンを置いて窓に近づいた。
鍵を開けることもなく窓を開け……。
その瞬間。
ワクに突いていた手に、筋張った手が重なった。
指先の硬い、大きな手が。
香穂子は目を見開く。
「蓮っ!?」
「すまない、かくまってくれっ」
そこに居たのは、切羽詰った顔をした月森 蓮。
「っあ、うん」
その返答を受けて、月森は窓ワクに片足を引っ掛ける。
慌てて香穂子がその場を避けると、相手のほうも慌てていたのか、バランスを崩して室内へと無様に転げ落ちてしまった。
「痛っ」
香穂子は一瞬月森を見たが、「かくまってくれ」という言葉を思い出して咄嗟に窓を閉めた。
わらわらと通り過ぎる女子の一群。
(あぁ、これのせいか)
香穂子は、月森が慌てて飛び込んできた理由が良くわかった。
しかし、そんなことは今どうでも良い。
「……蓮、大丈夫? 盛大に突っ込んだけど」
「あ、あぁ……」
あちらこちらを気にしてはいたものの、月森はすぐに立ち上がる様子だ。大してダメージはなかったらしい。
軽く、制服のほこりを払う。
「助かった、ありがとう」
「いえいえ、どうしたしまして」
お互いに息をつく2人。
香穂子がふふっと笑った。
「災難だね、蓮。去年もこうだったの?」
「あぁ。……まったく、何が面白いんだか……」
今日は4月24日。
つまり、月森 蓮その人の誕生日。
2月にあえなく玉砕した人も、今度こそはと意気込んでいて。
しかし当の本人は仏頂面で、香穂子にかくまわれていた。
「貰うだけ貰ってあげたら、向こうも気が済むんじゃないの?」
「君はそれを2月にも言ったことを忘れたか?」
(あ、しまった)
不機嫌そうな月森の声に、香穂子は内心冷や汗を流す。
その言葉を言った後、彼は抱えきれないほどの大荷物に困り果てていた。
「……前言撤回。今回の方がすごそうだよね……」
誕生日に贈るものは、大概後々まで残るもの。
月森は「あぁ」と一言零して、ピアノの椅子に腰掛けた。
「…………一番貰いたい人からは何の音沙汰もないのにな」
「え?」
「何でもない」
都合が悪いとすぐに目をそらすのは彼の癖。
(こういうところ、可愛いよねー)
思わず忍び笑いをもらす香穂子。
しかし彼の手元を見て、「あ」と声をあげた。
「蓮、鞄とケースは?」
「……!」
ようやく気がついたことに、月森は腰を浮かせた。
「きっと張られてるよ? 教室」
「身軽さを優先して、忘れていた……」
頭を抱える月森。
香穂子は苦笑いを零す。
「暫くここにいたら?」
「……そうする」
諦めたように椅子に座りなおす。
そして、ふと思い出したように香穂子を見た。
「せっかくだ、手間賃代わりに練習を手伝おうか」
「え、本当? 伴奏してくれる?」
「あぁ。指慣らしするから、少し待って」
月森が軽く簡単な曲をさらう。その視界の端に、香穂子が映った。
可愛い香穂子。
月森はいつだって、その姿に見蕩れるのだ。
「ねぇ、最初は何にしようか? 蓮の誕生日だもん、お祝いにリクエスト訊くよ」
そう言って微笑む香穂子に、月森の頬は思わず緩んだ。
「そうだな、……」
何や尻切れトンボですけど……お話はちゃんと練りましょう、氷月さん。
ともかく、月森ハッピーバースデー!