靴を、汚された。
体育のとき、いつもの靴を棚に置いていた間に。
とんだ暇人もいたものだ、と思う。自分の靴は、名前は書いておらず、特徴もない。
よくもまぁ、男女取り混ぜ約30名分の中から、この1つだけを見つけたものだ、と。
それも手伝ってか、月森の機嫌は最悪に悪かった。
コンクールが始まって、そう良くはなかった月森への風当たりは悪くなっていた。
『コンクールを辞退しろ』
何度も言われた覚えがある。
だが、辞退するわけにはいかなかった。自分のプライドにかけて。
それで今、こんな風に屋上へと逃げていたりするのだが……。
「あれ?月森くんだ」
「!」
何をするでもなくぼんやりしていた月森は、唐突な香穂子の声で我に返った。
「どうしたの? 何か元気ないね。」
見つけるなり寄ってきた香穂子に、月森は何と答えて良いのか、と思った。
これだけ懐っこく寄ってくる女生徒も珍しい。
大分と冷たい反応を見せていたはずだが。
「月森くん?」
「……靴を」
「?」
「靴を、汚された。体育の時間に……」
あぁ、と納得いった風な香穂子。
「そっか、災難だったね」
「あぁ」
会話はすぐに切れる。いつもこうだった。
こうなれば、香穂子はすぐにどこかへ行って練習を始める。
それが常態だった。
ただ、今日は少し違っていた。
香穂子は鞄をごそごそと漁っている。
月森はいぶかしんで首を傾げた。
「……一体、何を」
「ちょっと待って……あった」
そう言って引き出した彼女の手には、黒いチューブと布切れ1枚。
それがころりと、月森の手の中に収まった。
月森はますますいぶかしむ。
「これだけしか持ってないんだけど……あげる。使って」
「これは?」
「靴磨き用のクリームと布」
言われてみれば確かにそうだ。
しかし、何故彼女の鞄の中にそれがあったのか。
「私もちょっと靴汚しちゃってさ、リリに聞いてみたんだ。いろいろ持ってるし。そしたらくれたんだよね」
笑いながら香穂子が話す。
その彼女を見ながら、月森は呆然としていた。
靴を汚した、と笑う香穂子。
(ひょっとして、『汚された』のか?)
「……嫌がらせ、か?」
思わず、咎めるように月森は言った。慌てて口を噤むが後の祭り。
一瞬の沈黙。
やがて香穂子は困ったような笑みを広げ、肩を竦めた。
「……なのかな、やっぱり」
考えたくないんだけどさ。
そういう彼女の顔は少し沈んでいた。
期せずして当ててしまったことに、月森は酷く後悔の念を感じる。
その気持ちを知ってか知らずか、香穂子はにこっと笑顔を見せた。
「ま、気にしない気にしないっ。綺麗になったし、靴なんて替えがあるもん」
香穂子は軽やかに言うと、ベンチに鞄を置いてヴァイオリンケースを広げ始めた。
基本に忠実に、開放弦で音を合わせていく。
月森はふっと頬を緩めた。
「……A音(ラ)がずれているような気がするのは気のせいか?」
「あぅ」
魔法がかかっていようといなかろうと、調弦は大切だ。
こまごまと注意すると、香穂子はヴァイオリンをそっと下ろした。
流石に気を悪くしたか、と月森は内心思う。
しかし香穂子は、月森の心境などそっちのけで笑った。
「ありがと、月森くん。助かっちゃった」
屈託のない笑顔、と言うのは、今の彼女が見せているもののことを言うのだろう。
月森はそう思った。
「それにしても、すっごいね。耳だけでしょ?」
「あ、あぁ……慣れているから。昔から聞いているし」
「あ、そっか。音楽家族だって聞いたもんね」
(天羽さんか)
少し居心地悪く、月森は適当に髪をかき上げる。
「きっと楽しいんだろうなぁ」
「そんなことない。普段は両親いないから……」
香穂子はしまった、というふうに顔をしかめた。
「ご、ごめん……」
「いや、良い……」
ふ、と小さく月森は笑う。
「いつものことだから、そんなに気にしてないし……学校に来ればにぎやかで忘れるから」
特に君が。
指摘すると、香穂子は「どういう意味っ?」と頬を膨らませた。
それが愉快で、月森はまた笑う。
いつの間にか、嫌がらせをされてささくれ立っていた気分は穏やかになっていた。
「……ここで練習するんだろう?日野。この場は君に空け渡す」
「えっ、良いの?」
「良い。その代わり、しっかり練習してくれ」
「はぁ〜い」
香穂子の返事を確認すると、月森は軽く頷いてドアへと手を伸ばす。
そこで、あ、と小さく声を上げた。
「靴磨き、ありがとう。ありがたく使わせてもらう」
「どうしたしまして!」
明るい彼女の声に追われて、月森は屋上を後にした。
コンクールに出ることになって、いろいろと嫌なことはある。
けれど、楽しいこともある。
今日は嫌なこともあったけれど、ヴァイオリンは楽しく弾けそうだ。
月森は人知れず頬を緩めながら、練習室へと向かうべく階段を下りていった。