「あれ? 何それ」
 土浦の手の中のものを指して、香穂子は首を傾げた。
「ん? あぁ、こいつか。楽譜」
 土浦は事も無げに言うと、ほら、と香穂子に差し出す。
 受け取った香穂子は、題名も見ずに中をめくった。
 中身は、込み入り気味の音符達が2段の組みになってずらりと並んでいる。
「ピアノ譜?」
「あぁ」
「何の?」
「お前なぁ……」
 土浦はくくっと笑うと、楽譜を閉じさせ表紙を指し示した。
「あ、『愛のあいさつ』!」
「気づかずに読んでたのか?」
「うん、まったく」
 あっけらかんと言う香穂子。
 その様子に、土浦はくしゃくしゃと香穂子の頭を撫でた。
「んもぅ、いっつもそれするー」
 香穂子が抗議の声を上げると、背の高い恋人はははっと笑う。
「ちょうど良い位置にあるからな」
「むぅ……」
 憮然とする香穂子。
 また楽譜を開いてみる。
「……? これ、何?」
「あ?」
 そこにあったのは、連弾用の楽譜だった。

 ……で。
「難しいよ」
「大丈夫だって」
 香穂子は、練習室でピアノの授業を受けていた。
 教師は勿論、土浦である。
「指つっぱる〜!」
「お前、本当にヴァイオリンだけな……」
 くっくっ、と呆れたような笑い声を零す土浦。
「ほら、もうちょっと力抜いて……まっすぐから、少し緩める感じだ。そうそう」
 土浦は椅子をずらさないように立ち上がると、香穂子の手に僅かな丸みを持たせるために、お手本として自分の手を重ねた。
 自然、背後から寄り添う形になる。
 ふと、香穂子の肩が竦んだ。
「……ん? どうした」
「つ、土浦くんくっつき過ぎ……」
 そこで初めて、土浦はあ、と気が付いた。
 そしてにやりと頬を歪める。
「何だよ。嫌なのか?」
 かさにかかって、青年とも言うべき彼は小さな恋人を抱きしめた。
「土浦っ……」
「しー、誰かが見てるかもしれないぜ?」
「……っんもうっ」
 香穂子も、悪い気はしない。
 しないが、彼の唐突な行動はとんでもないくらい彼女の羞恥心をかきたてる。
 しっかりと抱き締められ過ぎてて、足をばたつかせるくらいしか抵抗のしようがない。
「こら、いい加減に……」
 ……ちゅっ……。
「……ま、今日はこれぐらいで我慢しとくか」
「我慢してくれるのは本当にありがたいけど……キスなしで出来なかった?」
 するりと解かれた腕をほんのちょっと名残惜しく思いながら、香穂子は口唇を尖らせて憎まれ口を叩いた。

「あれ?」
「ん、どうした?」
 帰り道。
 香穂子は今更ながらに出てきた疑問を土浦にぶつけてみた。
「あのさ、初心者って手を丸めて弾きなさいって言わない?」
「『手を丸めて』……? あぁ、ハイフィンガー奏法か」
「ハイ……何?」
「あぁ、こう……」
 土浦の手が、空中で不器用に丸く歪む。
「……鍵盤に対して直角くらいに指を曲げて、鍵盤をたたく弾き方さ。
 手を痛めるってんでヨーロッパ圏では19世紀末……大体、リストが出てきた頃な、その辺りに消えたやり方なんだがな、日本じゃまだ残ってる」
「へぇ〜、物知りだねぇ」
「ま、お袋の受け売りなんだがな」
 ピアノの先生やってるから。
 そういう土浦の表情は、誇らしげなような照れているような微妙な様子を見せる。
「ピアノ、好き?」
 だから香穂子は、そう問うてみた。
 ん? と土浦は香穂子を見て目瞬く。
「土浦くん、ピアノ好き?」

 きっと、彼は笑顔で頷くだろう。「あぁ、好きだよ」って言葉とともに。

「あぁ、好きだよ。……お前のことと同じくらい、な」
 ずばり大当たり。
 ……最も、耳元に返ってきた言葉は予想以上に恥ずかしいものだったけれど。




  Fine



 日常を切り取ろうと……して失敗気味。
 まぁ、初めてなんてこんなもんですよね!


※昔の鍵盤が軽いピアノ(名前は失念しましたι)のために生み出された「ハイフィンガー奏法」(皮肉って小ハンマー奏法とも言われた)は本当に悪いそうです。昔それで弾いていた日本人のピアニステスが常に指に包帯巻いていたとか。
 ちなみに、これが消え始めた頃にリストが重力奏法を使っていたというのは検証済みです。