特に何があるというわけでもないのに。
 何気ないトキに 突然時間が止まる。

   Moment (手塚3年)

「ったく、何でこんなに仕事がたまってるのよ……」
 泣きたくなるほどの書類の山の中、私はそう呟いた。
「悪いな」
 呟きを拾って返したのは、目の前で黙々と仕事をこなしている手塚 国光。
 青学テニス部部長にして、中学生徒会長。
 ……一応、彼氏である。
「そっち、終わったか?」
「んっと、手塚の左手の方のは終わったよ」
 そう言って一つの山を指差すと、彼は「じゃあこっち頼む」と別の山を押してきた。
(……くたばれ、指名副会長制!!)
 指名副会長制というのは、会長選挙の後に、会長が指名した副会長候補に信任投票をするというもので……それで指名されてしまった私は、今とんでもない苦労を背負っているというわけである。
「今日、テニスできるかな……」
 別に私がテニスをしたいわけじゃない。
 自慢にはならないけど、私はテニスで毎回ホームランをしてしまうくらいの腕前なのだ。
「…………無理だな。多分、30分も残らない」
 すっぱりと言い切る手塚少年。
「30分残ったら十分な気がするんだけど」
「そのうちウォームアップにいくら使うと思う?」
 忘れてました。
 少しの静寂の後、私は手を止めて手塚の顔を見た。
「残念?」
「少しはな」
 よくやるその受け答えに、手塚は必ず微笑う。
「ごめんね? 私がもっと優秀だったら今ごろテニス出来たのに」
 手塚が顔をあげた。
 綺麗な顔。
 眼鏡の奥には人の本質を見抜くかのように澄んだ瞳。
 そんな人が、不思議そうに首を傾げた。
「別に良いだろう? 俺はこうやって2人っきりでいられるのが嬉しい」
 時間が止まる。
 思考が、止まる。
 彼の言葉を頭が理解し、心に沁み渡らせるまでに時間がかかった。
「……え?」
「不思議そうだな」
 彼の口元が笑みの形を作る。
「俺はテニスが好きだ。お前も好きだ」
「……うん」
「テニスをしているときと同じか、それ以上にお前といられるのが嬉しい」
 そんなことを真顔で言われて、私の頬は今更ながらに熱くなった。

……あー、
 頬を赤らめて、手塚が私の名前を呼んだ。
 初めて、名前を呼んでくれた。
「コーヒー入れてくれないか……休憩に、しよう」
「……うん」
 私は、とびっきりの笑顔で頷いた。