雨が、降っていた。
イデアは寒々しい空気を締め出す為、寝室の鎧戸に手をかける。
「マンマ?」
その掠れた呼び声に、イデアは振り返った。そこでは、小さな子が彼女のベッドに寝かされている。
彼女の夫に良く似た蒼眸に、金に近い淡い茶髪。スコールという、彼女らの養い子の1人だ。
「うるさかったわね、ごめんなさい」
「マンマ」
彼は、昨日から熱を出していた。季節外れの長雨に、風邪を引かされたのだ。おかげで、今日は彼女の夫がガルバディアの農場へと遊びに連れていく予定だったというのに、この子だけはベッドの中だ。
イデアはゆったりとスコールの髪を撫でる。
「もう少し、おやすみなさい。まだ熱があるからね」
「…………」
スコールはまだ上手くお喋りが出来ず、言葉を使ったコミュニケーションはあまり出来ない。だからイデアは、彼と話すときはいつも顔を見ながらゆっくりと話しかけていた。
スコールは頬を膨らませたが、素直に言うことを聞いて目を閉じてくれた。イデアはほっと目を和ませると、スコールの枕許で編物を始めた。少し早めの冬支度だ。
それから、暫し。
「…………?」
玄関の方から何か聞こえた気がして、イデアは腰を上げた。
「どなた、ですか?」
こんな辺境地に、一体何の用だろう? 戦乱から離れている代わりに何もない、このセントラの隅に。
「すんません、突然に。あの、手紙を貰いまして……」
「…………!!」
イデアは先程までの用心深さを捨て、性急な仕草で扉を開いた。
そこにいたのは、ずぶ濡れになった1人の青年だった。黒い長髪に、翠の瞳が魅力的に納まっている。イデアは、その人物を良く知っていた。
「……ミスタ・レウァール」
「お久しぶりです。レディ・イデア」
雨除けの外套から頭を出して、ラグナ・レウァールは頭を下げた。
「手紙はちゃんと届いたのね。良かったわ」
「はい」
青年は頷いたきり、口篭る。
「とにかく、お入りになって。雨の中、大変だったでしょう?」
イデアは青年を招き入れ、外套を引き取りコートハンガーへかけた。ぼたぼたと雫が零れ、床に水溜まりが出来る。
そこに、ひたりと小さな足音が加わった。
「……マンマ?」
「まぁ、出てきてしまったの?」
イデアは慌てて屈み込み、幼子に自分のショールを着せかける。
「駄目じゃないの。まだ熱があるのに」
「れ?」
イデアの肩越しに、幼子は青年を指差し首を傾げる。
青年は、まじまじと幼子を見た。さて、この子はどちらだ? マリーナか、それとも――。
「スコール、か?」
幼子はきょとんとしながらも、自身の名を呼ばれて頷いた。
あぁ、何と言うことだろう。この子は母親にそっくりだ。柔らかな金茶の髪、美しい蒼銀の瞳。何もかも、あの日最後になった「妻」に生き写しだった。
『この子が生まれる前に、エルと一緒に戻ってくるよ。そうしたら――オレ達4人、家族になろう』
青年は、泣きたいのを必死で堪えた。泣いても時間は戻らない。彼女は、還らない。
「…………っ!」
青年は膝を突くと、込み上げた衝動に従って幼子を抱き締めた。
高い体温。燃えるような温もりに、自身がすっかり凍え切っていたことに気付く。
「?」
「スコール……っ」
泣きそうな、声。
幼子はそっと青年の腕に触れた。
「たーいたい」
「……? あ、あぁ、ごめんな、苦しいよな」
青年は慌てて腕を緩める。だが、幼子は彼の腕をてんてんと叩いていた。
「たーいたーい、えいっ」
ぱっ、と手を広げる。
「…………?」
「『痛いの痛いの、飛んでいけー、えいっ』」
イデアが幼子の代弁をする。青年が目線をやると、イデアは優しい笑みを浮かべて頷いた。
「…………」
感極まった青年は、もう一度幼い息子を抱き締めた。
――レイン、オレ達の可愛いスコールは、こんなに優しい子に育ってくれていたよ。
君にも、見せてやりたかった。
「それで、今はどちらに?」
「エスタっす。おかげで、レディ・イデアからのお返事もずーいぶん遠回りしちまったみたいで」
膝の上で穏やかに眠る息子を撫でさすりながら、ラグナはそう答えた。
「……手紙が届いたのは、ついこの間……この子の、誕生日でした」
「まぁ……」
そんな奇跡があるものなのか。イデアは心底驚き、スコールを見た。
スコールは今、安心しきって眠っている。柔らかなブランケットと父親の愛情に包まれて。その小さな手には、やはり小さなテディ・ベアが握られていた。ラグナからのプレゼントだ。きっと、2年分のバースデープレゼントなのだろう、とイデアは思う。
「それで、エルオーネとスコールを引き取りにいらしたんですよね? 少し待って下さいね、もう少ししたら……」
「そのことなんですが」
ラグナはイデアの言葉を遮った。イデアは首を傾げる。
「もう、暫く……預かってはもらえませんか」
「……え?」
イデアの胸の内に、一瞬にして憤りが沸き起こる。が、それは不発に終わった。
ラグナは、苦しげな表情をしていた。
「エスタは、まだまだ危ないところです。そこでオレは、とても自由にならない立場にいます。オレには、あの国に責任がある。
……勿論、子供達を軽んじているつもりはありません。でも、だけど、オレが、今のオレがこの子達を育てるのは無理なんです。きっとこの子達を不幸にしてしまう。そんなの、絶対駄目だ。幸せにしてやりたいのに、今のオレにはそれが出来ないんだ!」
苦しそうに、悔しそうにラグナは吐き出した。 イデアは、じっくりとその言葉を吟味する。
「……………わかりました」
ゆっくり頷くイデア。
「貴方のお仕事が一段落付くまで、私が大切にお預かりしましょう。その代わり、必ず迎えに来てあげて下さいね?」
漸くほっとしたのだろう、ラグナは涙目で淡く笑った。
「はい……はい、勿論! 必ず!!」
その時。
「〜〜〜〜〜っ」
急にスコールがぐずり出す。ラグナは慌てた。エルオーネで子供の世話は馴れていたつもりだったが、これだけ赤ちゃん赤ちゃんしている子は初めてで、勝手がわからない。
「ど、どうしたんだスコール? オレ、抱き方悪かったのかな?」
「…………」
イデアは切なげに目を細めると、テーブルを回ってスコールを抱き取った。
「行ってください、今の内に」
「え、でも、スコールが……」
「きっと、何か感じ取ったんでしょう。まだ寝ぼけている今の内でないと、きっと決心が鈍りますよ。完全に目を醒ましたら、きっと全力で貴方を引き留めようとするから」
「…………」
何事もなかったかのように、いつもの仕草でスコールをあやすイデア。だがスコールはぐずぐずといつまでも落ち着かない。
立ち上がったラグナは名残惜しげにスコールの髪に手を伸ばし……寸でのところで、止めた。目も手もぎゅっと閉じて、奪い取ってしまいたい衝動を辛うじて抑える。
代わりに彼は、数歩下がって一礼した。
「どうか、お願いします……!」
「はい。また、いつか近い内に」
イデアは微笑んで会釈した。ラグナは慌ただしく外套を羽織ると、外へと続くドアを開く。
雨音が家の中に充ちた。
「……ぁー」
「っ!」
びくん! とラグナの肩が震える。あぁ、遅かった。スコールが目を覚ましてしまった。
だがラグナは振り返らなかった。スコールの声を振り切るように、雨の中に踏み出す。
「あーぁ、あーあーっ!」
叫ぶスコール。
「ぱーぱ、ぱーぱ!」
「スコール」
「やーだーっ、ぱぱぁーっ!!」
イデアに抱かれ、涙に枯れるその声。ラグナは外套のフードを無理に引き下げ、船を泊めさせた入り江へ急ぐ。
「ごめん、スコール……っ」
会えて良かった。会うんじゃなかった。
生まれてきてくれてありがとう。どうして生まれてきてしまったんだ。
胸の中が、ぐちゃぐちゃだった。
「ラグナくん」
入り江に辿り着くと、雨の中、親友達が船に避難せずに待っていた。
「(おかえり)」
「あぁ」
「
「
「(でかしたじゃないか)」
「私はてっきり、彼女が遺していくのなら
2人の冷やかしにラグナは肩を竦め、デッキへと上がる。
「ラグナくん」
「あ〜?」
「良かったのか、連れてこなくて」
足が、止まる。
船はゆっくりと入り江を離れ始めた。
「………………」
ラグナは無言でデッキに出た。雨が叩き付け、外套が用をなさなくなるかと勘繰る程に濡らしていく。
「(……それがあんたの選択なら何も言わない)」
「デッキは暫く人払いをしておこう。……気が済んだら――済む訳ないな、少しでも気が晴れたらキャビンに戻ってくるように」
静かにドアが閉じられて、ラグナは独りきりになった。
『やーだーっ、ぱぱぁーっ!!』
会うべきではなかった。ラグナは痛感した。あんな風に泣かせるくらいなら、お互いの存在を空想のままにしておいた方がまだ善かったのではないか。
でも、それでも――。
「会わずには、いられなかったんだ……」
腕を上げる。あの子の重みを思い出し、自然とその手が小さな籠を作った。
だが抱くべき愛し子はいない。
「うっ、く…………うあぁぁぁぁあーっ!!」
ラグナはただ声を上げた。ただ泣き続けた。
そして彼は心に誓う。出来る限り早く、あの子達を迎えに行く、と。
――だが、時は無情にも彼を押し流していった。
彼が約束を果たすのは、およそ15年の後――。