往々にして、21歳の誕生日というものは、特別な意味を持つ。
地域によってはその年に21歳になる者を集めた盛大な祝祭に参加たり、両親から「特別な贈り物」を授かったりする。社交界にデビューする者もいる。いずれにせよ、大人の仲間入りをするという意味で、特別なのだ。
スコール・レオンハートにとっては、この年は世の中の若者に輪をかけて特別な年だった。
18歳から数えて、3年。あの日、ドールの議会で締結された「魔女の保護に関する議会宣言」の失効する年。
リノアの誕生日は3月だ。後半年程で、未成年として魔女リノアへの庇護はなくなるのだ。スコールはそれが気になっている。
そして後もうひとつ、彼には解せないことがあった。
(俺はどうして、今ここにいるんだったっけ……?)
壁にもたれている彼はタキシードを纏っている。
目の前には、華やかなドレスの群れ。目には楽しいのだが、スコールには何とも言い難い。
ガルバディア軍における、「カミングオブエイジ・セレモニー」というものだそうだ。軍の縦横の繋がりは一種の社交界、そこで顔を売ることは、軍の上層部に昇りやすくなるということでもある。
しかしながら正直なところ、スコールにはさっぱり関係ない。彼にはガルバディア軍に入隊する予定はまるでないからだ。スコールは何度目かの溜息をついた。
さて、こういった所謂社交場に必要なものといえば、パートナーの存在だ。当然、恋人を持つスコールはリノアという愛しいパートナーを連れている。だが父の同伴もしなければならないリノアは、会場入りしてゆっくりする間もなくスコールの元を離れてしまった。それきり中々戻ってこない。
手持ち無沙汰にグラスを煽るスコール。それを見ていた女性2人組が、スコールに狙いを定めてすすすっと近寄ってきた。気の強そうな一方が大人しげなもう一方の背中を押して、大人しげな方が前に出た。
「お1人ですの? あの、良かったら私達とご一緒しません?」
スコールは苦笑した。パートナーを持たない「独身」(シングル)は、こんなふうに出逢いを求めていたりするのだ。スコールはさりげなくポケットチーフを弄る。
「すみませんが、連れがいるので……」
スカイブルーとシルバーブルーのクラッシュチーフは、目にも鮮やかだ。実はパートナーたるリノアのドレスの共布で出来ているのだが、悲しいかな当の本人がいなければその事実はわからない。社交界で推奨されるポケットチーフは色付きであるからだ。
「すまないが、遠慮してもらえないか」
だからその声が割り込んできたとき、正しく天の助けだとスコールは感じた。彼の肩を叩くのは、フューリー・カーウェイだ。
「彼は我が家の客人でね、娘を山車に連れてきたものだから」
「あら、やだ!」
「失礼いたしました、カーウェイ元帥!」
女性達は敬礼をすると慌ててその場を離れる。やだー、とんでもないことしちゃった! などと言い合っているのが微かに聞こえていた。
「助かりました。ありがとうございます」
スコールが深々と頭を下げる。カーウェイは苦笑した。
「すまないな、スコール君。彼女達は今年卒業したばかりの士官だ。君の顔を知らなかったんだろう」「あー……」
それならばスコールへ声をかけてくる筈だ。ガルバディア軍の人間で彼の顔を知らないのは、新兵や士官候補生といった現場の将校と顔を合わせない者ばかり。先刻から彼らが声をかけてくるのをどう断ったものかと四苦八苦していたのだ。
「娘はもう来る。そうすればこんな気苦労もなくなるよ」
スコールは肩を竦めた。
こんな時、カーウェイはひょっとしたら実の父親以上に自分のことを理解しているのではないかと思う。そう錯覚するくらい、カーウェイはスコールに心を砕いてくれる。勿論、ラグナがスコールを愛してくれないとかそういうことではなく、もうこれは単に性格と関係性の問題ではないかと思う。ラグナはスコールもエルオーネも殊の外愛してくれているが、彼は男親だし大して細やかな性格ではない。対してカーウェイは生真面目な人で、スコールは言わば「娘の婚約者」だ。気を使わない訳がない。
「スコール、お待たせ!」
鮮やかなスカイブルーがひらりと舞って、スコールの隣へ収まった。
「お帰り、リノア」
「ただいま♪」
桜色の唇が、スコールの頬を軽く掠める。スコールは慌ててリノアの肩を押し退けた。逆隣でカーウェイが笑う気配がする。
(あーもう何これ恥ずかしい……)
多分真っ赤になっているだろう耳を擦り、スコールはリノアの持ってきてくれたグラスを受け取った。
「……ありがとう」
拗ねていたって挨拶は大事、そっぽを剥いて礼を言うスコール。リノアはにっこりと「どういたしまして!」と返した。
通り掛かりのウェイターからグラスを貰い、カーウェイは2人の様子をこっそりと観察する。
相も変わらず仲が良い2人だ。親の目前にも関わらずグラスを交換し、あまつさえそれを飲み干してみせる。くすくす笑う手元のグラスの中身は、果たしてアルコールが入っていなかったと言えるのか。
(わたしの頃には考えもつかなかったな)
苦笑いするカーウェイ。この世代になると、人前でもべたべたするのは普通なのだろうか。 しかしスコールは、リノアから心配される程に純朴な青年だ。カーウェイは時々、愛娘から彼に関するお叱りを受ける。曰く、「お父さんスコールに何言ったの!?」。おいおい我が娘よ、君の恋人の司令官殿が下世話な話をした可能性は考えないのかね?
「なぁに? お父さん。にやにやしちゃって」
リノアが訝しげに片眉を上げる。カーウェイが緩く頭を振ると、スコールが遠慮がちに彼女の肩を押した。
「俺達、近すぎるかも」
「え、そう? パーティーでのカップルってこんなもんだよ?」
「それってパーティーはパーティーでもティーン向けのパーティーじゃないか?」
スコールの指摘に、リノアは首を傾げ、周囲を見回す。
「皆、そうっぽいけど?」
「……まぁ、カミングオブエイジ・セレモニーは若年者向けのパーティーだからな」
頭を抱えて項垂れたスコールの肩を、カーウェイが慰めるように叩いた。そして、グラスを取り上げぐいっと押しやる。
「良いから、ダンスでもしてきなさい」
「あ、はい……」
カーウェイの奨めにスコールははにかみながらもリノアの手を取り、ホールの中心部へ向かっていった。
「あーっ、踊ったーっ♪」
珍しく晴れ渡った夜空の下、リノアは大きく伸びをした。カーウェイは大きな溜息をつく。
「カミングオブエイジ・セレモニーであんなに踊るレディは今まで見たことなかったぞ」
「あら、最後にあんなダンスミュージックなんてかけるから悪いのよ。ワルツを踊って欲しいならワルツだけかけなくちゃ」
「ごもっともだな。やれやれ、我が娘は口が達者で困る」
1歩遅れて2人に付いていたスコールは、親子のやり取りを見て小さく笑っていた。
何だかんだ言って、この2人は仲が良い。一時はティンバーの件で険悪な様子だったらしいが、スコールから見た2人はそんなことがあったなんて微塵も感じさせない。これが演技なら大したものだが、リノアもカーウェイも嘘のつけない――カーウェイの場合は、どちらかと言えば「私生活では嘘をつかないようにしている」だろうが――性格だから、見ていると微笑ましいことこの上ない。
待ち構えていた運転手が、リムジンのドアを開いた。カーウェイとリノアが当然のように滑り込む。
「スコール」
リノアが手を差し延べた。スコールはきょとんと目を瞬く。
「早く乗って。今夜はカーウェイ邸(うち)に泊まるのよ」
「え、でも……」
スコールは戸惑い、ちらりとカーウェイを見る。カーウェイは鷹揚に頷いた。
「何だ、話がついていなかったのか?」
「話……」
一先ずリノアに引っ張られるままにリムジンへ乗り込みながら、スコールは思い返す。
(…………あぁ、そういえば)
先月だった。カーウェイからリノアと共にセレモニーに出席出来るかと打診され、予定を空けた。その時、カーウェイから「良ければうちに泊まると良い」と言われていたが、スコールは社交辞令と考えリノアにホテルの予約をお願いしていたのだ。リノアは「わかった、お部屋お願いしとくねー」と言っていたが、その時の笑顔はそういえば含みがあった。まさか、そういうことだったとは。
やっと合点のいったスコールがかくっと頭を落とすと、カーウェイはゆったりと笑った。
「心配しなくて良い、無下にはしないから。何せ1番の上客だからな、一等良い客間を用意している」「……お世話になります」
気恥ずかしさに唇をきゅっと引き締めて頭を下げるスコール。カーウェイはずずいと身を乗り出し、悪戯っ子のように唇の端を丸めてみせた。
「それと、美味い酒もな。君とは一度飲み比べがしたかったんだ」
聞き咎めたリノアの眉が片方跳ね上がる。
「お父さん、スコールにあんまり飲ませようとしないでよ。見てないとすーぐに量を過ごすんだから!」
「ほう、そうか。ではお前も一緒にどうだ? 心配なら見ていれば良いだろう」
「残念ながらわたしは成人じゃありませーん。今年度の成人というだけだもの」
後半年は未成年であるリノアは、べぇっと舌を出した。スコールは窘めるように小声で彼女を呼ぶ。カーウェイは苦笑した。
「私は別に構わんぞ。遠慮しなくても」
「やぁよ〜。それに正直、キツいお酒は苦手だしね」
だから2人で自制し合ってください。リノアがそう締め括る頃、リムジンは静かにカーウェイ邸に到着した。
窮屈なタキシードを剥ぎ取られ、温い風呂に沈められておよそ30分程。すっかり茹で上がったスコールは、リノアの部屋に連れ込まれて湯冷ましを飲まされていた。微かな塩味とレモンの風味が喉に心地好い。アンジェロは嗅ぎ慣れない石鹸の匂いにひたすら鼻をうごめかせていたが、やがてその嗅ぎ慣れない匂いの元がスコールの足だと理解するとほっとした様子ですぐ近くに寝そべった。一連の様子をスコールは、くふ、と小さく笑う。
「お風呂、大丈夫だった? はみ出したりとか」
「うん、何とかしたよ。ちょっとバスタブ小さいんだな」
でも気持ち良かった、と言うと、リノアは嬉しそうににっこりした。ついでにレモン水のお代わりを頼むと、横着者、と額をはたき、リノアはコップになみなみと注いでくれる。
「金猫足のバスタブとか初めて見たよ。ここはお伽話のお屋敷か?」
「あー、あれね。時々ハーティリーの御祖母様方が来るから、そちらの趣味で置いてるのよ」
聞けば、とても上等な品なのだそうだ。そんなものを使わせてもらって良かったのだろうかとスコールが不安がると、「使わない道具なんてすぐに朽ちるわ」とリノアはけろっと返した。客が来るときぐらいしか手入れをしないらしく、逆に口実となって具合が良いらしい。
スコールは自他ともに認める庶民である。普段使わないモノといえば葬礼用のダークスーツのような、消耗品かつ細々しいものだ。使わないバスタブを置いておくなどとはなかなか理解が出来ない。
「金持ちの思考はわからない……」
「すいませんねぇ」
頭を振るスコールに、リノアは苦笑しつつ寄り添う。椅子代わりにされたベッドが、ぎしりと音を立てた。
顔を寄せてくる恋人に、スコールは口付ける。ちゅ、と小さな音と共に離れた筈の唇を、甘い桃色の舌がちろちろと追う。くすぐったさに微かに口許を綻ばせると、粘膜を探るようにリノアが侵入してくる。は……、と小さな吐息を零すと、スコールはその小さな頭をそっと支えて深く口付けた。満足そうな呻きが、どちらともなく口の端から零れ落ちる。
こうなればどちらからも構ってもらえないだろうアンジェロは、つまらなさそうに鼻を鳴らし、部屋の隅に設えられた寝床に丸くなる。大きな欠伸をしてから重ねた手に頭を埋めるのはいつもの仕種だ。ただ、今日は具合が違った。
「ウォン!」
突如、アンジェロが吠えた。スコールは驚いて跳ね起きる。お楽しみを邪魔されたリノアは、憮然とした顔で起き上がった。きゅんきゅんと鼻を鳴らすアンジェロに、リノアは首を傾げる。
「なぁに、アンジェロ?」
そこに、遠慮勝ちなノックが割り込んだ。リノアの肩が明らかに跳ね上がって固まる。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「は、はぁい。待ってマーサ!」
内心でアンジェログッジョブ! なんて親指を立てながら、リノアはばたばたと髪や服を撫でる。スコールは慌ててベッドカバーを撫でて整えていた。その頃には、アンジェロは我関せずを決め込んで鼻先を毛布に突っ込んでいる。
「ごめんなさい、何?」
スコールがぴしっと座り直したのを確認してドアを開けると、マーサと呼ばれたメイドが柔らかく頭を下げた。
「旦那様が、書斎へお客様をお呼びするようにとおっしゃられるので」
「あら、じゃあお風呂空いたのね」
「はい、お嬢様。どうぞお入りくださいな、お湯を足しましたので」
「ありがとう、すぐ行くわ」
リノアはスコールを呼び寄せ、メイドに託して送り出す。この後顔を合わせるのは、果たしていつになるのやら。
(おかしなことにならなきゃ良いんだけど)
常日頃、父は事あるごとに連れて来い連れて来いと煩かった。お酒を飲まされて潰されるくらいなら良いんだけどなぁ、と不安がりながら、リノアはバスルームへ向かった。
「あぁ、来たな」
私の城へようこそ、などと冗談めかしていいながら、カーウェイはスコールを書斎へ迎え入れた。
書斎といっても、恐らく簡単な会談の際には応接間として使われるのだろう。四方は本棚で囲われているものの、そこそこの広さのある部屋の中央には小さなソファセットとローテーブルが置かれている。微かな空調の音が響いていた。
好きに座ると良い、とカーウェイは言うが、小市民であると自身を認識しているスコールには恐れ多いことである。小さい方のソファにちんまりと座ると、カーウェイはくくく、と笑った。
「楽にしたまえ。何も取って食おうという訳じゃない」
カーウェイはそう言うと、傍らに置いていたワゴンからクリスタルガラスのグラスを取り上げた。恐らく揃いだろうカットの美しいデキャンタには、深い琥珀色の液体が満ちている。
「それは?」
「蔵出しウィスキーの15年物だ。なかなか美味いぞ」
適当に氷を放り込み、カーウェイはグラスへウィスキーを注ぐ。かろん、と涼やかな音がした。
「どうぞ」
「頂きます」
漂う独特の香気に、スコールの目許が期待に緩む。だが恐る恐る口にしたそれは、深みのある不思議な風味がした。思わず眉根を寄せかけて、必死で抑える。
「酷い顔だ」
ポーカーフェイスを装ったつもりが、あっさり見抜かれてしまった。スコールは肩を竦める。
「すみません、普段缶酎ハイとかカクテルばかりで」
「成程。で、ワインならロゼや白の甘口かな?」
「御明察」
参りました、とグラスを掲げると、カーウェイは自身のグラスをそこに打ち付けた。チィン! と良い音を鳴らして離れていくそれは、使い込まれた物のようで微かな傷がいくつも付いていた。
カーウェイはぐるりとソファを回り、2人掛けの方にゆったりと腰を落ち着けた。ガウンの色も相まって、王侯貴族のような風情だ。
「ん? どうした」
「いやぁあの……すごい色のガウンですよね?」
「あぁ、これか」
ガウンの襟を摘み上げるカーウェイ。
「去年、部下からバースデープレゼントだと押し付けられたんだ。素晴らしいものだと思わないか?」
「あはは」
言葉に反してしかめられたカーウェイの顔に、スコールは声を立てて笑う。
「時々、すごいもの送ってくるひといますよね」
「いるな、概ね悪ふざけで。だが時には完全なる善意からの場合もある」
「あぁ、対処が困りますよね、そういうの」
「無下にするのも祟られそうでな……そんな訳で、時々こうして着る訳だ。悔しいことに非常に物が良い。あぁ全く、どうしてその選定眼と同じくらい審美眼を磨いてくれないのか」
「でも物が良いならまだ良いじゃないですか。うちでそういうことするとき、大体の場合は『これをどうしろと言うんだ』って聞きたくなるほどのシロモノですよ?」
「学生の時分にはよくあるおふざけだな。私もハイスクールの頃にはよくやった」
和やかな笑い声。そのまま会話はふと途切れ、暫しの間静寂が訪れた。
「……お父上とは、どうだね」
からり、と氷を鳴らし、カーウェイが問う。
「どう、とは……?」
「あぁいや、別に他意がある訳ではないんだ。ただ、エスタ大統領の身辺は噂のひとつもなかなか流れんのでな、つい」
スコールは小さく頷く。カーウェイはくい、とグラスを傾けた。
「正直な所、君や君のご家族の近況がな、知りたくて。いや、不仲だとかそういうことを疑っている訳ではない。ただ、無事なのか、そういうことを知りたくてだな」
言い訳じみた物言いに、スコールは小さく笑った。
「元気ですよ、皆」
「……そうか、それなら良い」
カーウェイの瞳が柔らかく解れる。
それきり、また無言になる。カーウェイのグラスが空けばスコールはデキャンタを傾けた。カーウェイもまた、スコールのグラスに気をかける。あまり進んでいないと見れば、メイドに甘い果実酒と新しいグラスを持ってこさせ、それを寄越した。勿論スコールとて遠慮はした。だがそれで聞く耳を持つカーウェイではない。
デキャンタを丸々空にし、果実酒も半分を飲み干したところで、カーウェイはつとドアを見遣った。恐らくリノアが風呂に入ってから、随分と経つ筈だが。
「……来ないな、あれは」
「茹だってるんじゃないですか」
スコールは仕方ないな、とでも言いたげに肩を竦めた。物騒なことを聞いたとカーウェイは一瞬耳を疑ったが、娘が普段どこで暮らしているのかを思い出して苦笑した。茹だってる、は言葉そのものの意味ではない、バラム方言でいうところの長風呂の形容だ。たっぷりの湯に肩まで浸かるその様子は、確かに鍋釜で茹でられているように見えなくもない。
「呼んできますか?」
「いや、良い。好きにさせておこう。口煩いのがいない方がこちらも好きに、飲める」
チィン、とグラスが触れ合った。ぐっと丸まった口の端が、まるで悪戯っ子のようだ。
「あれの母親も、比較的長風呂だったな」
「へぇ」
初めて聞く話に、スコールは目を丸くした。
スコールは、リノアの母であるジュリア・カーウェイを知らない。彼が知るのは、ラグナの目を通して見たピアニストであるジュリア・ハーティリーだ。それも、ほんの一部分。
カーウェイの瞳が遠くなる。
「自分への褒美と称してささやかな贅沢をするのが好きな女性だったよ、あれは」
「ささやかな贅沢?」
「疲れた日はとっておきのお茶を入れるとか、公演の終わった日には大好きなメーカーのチョコレートを買ってくるとか」
「あれ? 奥様はハーティリー家の方でしたよね? あの……名門の」
「うむ」
カーウェイは頷く。
「しかしな、あれも結婚前は暫く一人暮らしをしていたから、金の使い方はなかなか慎ましいものだったぞ。何せ娘や私の服も縫っていたくらいだからな、倹約精神は筋金入りだよ」
しかしリノアの方はあれに似ず不器用に育ってしまったがな、とカーウェイは笑った。スコールもほんのりと微笑む。
「ご結婚、いつぐらいでしたっけ?」
「私が少佐に昇進して少しした頃……だったかな、うん……。第二次大戦がほぼ終わった頃だよ。当時は騒がれたよ、『傷心の歌姫、若き将校と電撃結婚!』、なんてな」
やれやれ、と頭を振るカーウェイ。今となってはうんざりしていた筈のその記憶すらも愛おしくて胸が痛い。あぁ本当にうんざりだ、どうして死んでしまったんだジュリア!
「……ジュリアとは、幼なじみだったんだ」
ぽつりと、カーウェイが零した。
「私が士官学校に入るまで、ジュリアが生まれた時から、ずぅっとつかず離れずだった。面と顔を合わせなくなっても細々と交流していた。だが久し振りに会ったとき、こんなにも美しい女性は見たことがないと思ったね。……幼なじみで、よく知っていると思っていた相手に、私は一目惚れしたんだよ。馬鹿みたいだろう?」
くすくす笑いながらグラスを煽るカーウェイは強か飲んだ筈だが、その酔いは目許が少し緩んだくらいのように見受けられる。
窓の外には月が輝いていた。 夜は長い、こんな日にくらいは昔語りをしたくもなるだろう――スコールは果実酒をちびりと舐め、座り直す。
「……ジュリアは、リノアを庇って亡くなったんだ」
「…………」
「表向き、交通事故ということになっている。睡眠不足の運転手のミスで、建物に突っ込んだ――とな」
「実際は、違うんですか?」
「『死人に口なし』だよ、スコールくん。トム・グラブ――その運転手なんだが――は死んだ。ただ、その車には大量のガソリンが積まれていた。タンクを満タンにしてまだ余る量だ。そして建物は軍総務部の入っているものだった。更には、グラブは過激派の要注意人物として陸軍から目を付けられている存在だった」
「――あぁ」
スコールは嘆息した。皆まで聞くまい、カーウェイの最愛の妻にしてリノアの母親は、最悪の場面に運悪く居合わせたのだ。
カーウェイは両手でグラスを包み、額に当てた。そのまま肘を膝に突くと、まるで懺悔の形だ。
「私はたまたま外に出ていたから難を逃れたが、私の着替えを持ってきたジュリア達は巻き込まれてしまった。連絡を受けてやっと駆け付けたのは、炎上したという車が鎮火してからだ……泣き声が、聞こえて……リノアだった……」
カーウェイは暫し俯いたまま慟哭した。静かな慟哭だった。やがて彼はふー……と長く息を付き、赤みがかった目をスコールに向けた。涙の気配はあったが、その頬は枯れている。そのせいか、随分と老いて見えた。
「すまんな、こんな話を聞かせてしまって……歳を取るとどうもいかん」
「いえ」
スコールはゆるりと頭を振った。
(きっと辛かったんだろうな)
泣いてしまえば良いのに、とスコールは思う。ここには今、彼と自分の2人しかいない。だがカーウェイが泣くことはない。
「そのお話、リノアには……?」
「……リノアにはしていないんだ。君もあの子から聞いてはいないだろう?」
「あぁ、はい、聞いてないです。5歳の誕生日の頃の記憶は曖昧だとは聞きましたが……」
「そうだろうな、その頃は入院に葬儀と大童だった。ジュリアが身を挺して守ったとは言え、怪我ひとつなく、とはいかなかったからな……それに、すぐに母親の死を受け入れるにはあの子は幼なすぎた。『ママはどこ?』と訊かれる度に胸が締め付けられたよ」
「それはそうでしょうね」
スコールは努めて労りの気持ちを込めるように気を付けた。手を伸ばして身体を摩るようなことはせず、ただ声だけで労る。
スコールはカーウェイにとって、恐らくは言わば「恋のライバル」だ。大事な大事な掌中の珠を奪っていく敵――その敵に、肩を撫でるとか抱き締めるだとかはされたくないだろう。もし自分がその立場なら……。
(相手を殴りそうだ)
胸の内だけで自分を嘲笑う。馬鹿すぎる。殴って口論になり、それから大喧嘩。妙なリアリティを伴って脳裏に描き出されるそれは、幼少の頃からサイファーとよくやらかした図式だった。
「……そうだ、君も御母上を亡くしていたんだったな。余計なことを思い出させただろう? すまない」
「いえ、俺は母のことはこれっぽっちも覚えてないんで大丈夫です」
飲み残しのワイングラスを示して言ったその言葉は、事実だ。スコールは母親としてのレインのことは微か程も覚えていない。というか、知らない。いたら幸せだろうとは思うが、いないからとどうという感慨もない。 だがカーウェイは申し訳なさそうに顔をしかめる。
「そ、うか……すまない、本当にすまない」
「いえ、本当に。知らないので、何とも思えないんですよ。物心ついた頃には実の両親がいないのなんて当たり前だったし、むしろあれだな、あれだけ可愛がってくれたクレイマー夫妻がいずれ俺を手放すつもりだったってことを知った時の方がぐったりしたなぁ……その時はリノアがいてくれたから、何とかなりましたけど」(作者注:『導きの光』参照)
「あれが? 助けるつもりで引っ掻き回したのではなく?」
「いてくれただけで救いになりました。貴方にとっての、娘としてのリノアと同じです」
「――――そうか」
カーウェイは、ほろり、と微笑んだ。
「君は今、幸福か?」
スコールはゆっくりと頷く。
「とても」
愛おしそうにスコールを見つめるカーウェイの笑みが、ますます深くなる。
そこに、軽いノックが割り込んだ。
「やっほーい、スコール〜」
応えを待つことなく開かれた扉の向こうにいたのは、やはりというか何と言うか、リノアだった。彼女はスコールを見、ふと片眉を跳ね上げる。
「?」
首を傾げるスコールに、リノアは両手をまといつかせた。グラスを落とさないよう迅速にテーブルに置いたスコールは、ますますきょとんと目を丸くする。
「何だよ」
「スコール、お父さんに何かひどいこと言われたんでしょ。何か、泣きそうよ。そんな匂いがする」
「昔話聞いてただけ。別に何もないよ」
「本当かしら」
リノアは肘掛けに腰を下ろし、スコールを抱き締める。スコールが慌てるその目線の先で、カーウェイは額に指先を当てくつくつと笑っていた。
「やれやれ、飲める者同士で少し酒をと思ったら、とんだことになってしまったな」
はしたないぞリノア、などとからかいながら、カーウェイはグラスを置いた。目元を払った彼には、先程までの憔悴は微塵も感じられない。彼は立ち上がり、ぐるりとソファを回って書き物机に向かう。そっと引き出しを開いた彼は、紫のビロードで出来た小箱を取り出した。それを、すっとスコールの方へ滑らせる。
「お父さん、これは?」
「開けてみればわかる。……リノア、隣で良いからきちんと座りなさい」
父の苦言にリノアはべっと舌を出し、しかし素直にスコールの隣に置かれたスツールに座る。それでも指先は恋人の肩にまといつかせたままだ。スコールはその指先にそっと触れてから、小箱に手をかけた。
中には、機械式の懐中時計が入っていた。スコールだって男の子、ややこしい機械には目がきらきらしてしまう。
「これは?」
「これは、私からの成人祝いだ。私が初めて士官した時記念に買ったものでな、古いもので申し訳ないが……」
たまらずスコールは腰を浮かした。
「う、受け取れませんよそんな大事なもの! それにカーウェイさん、懐中時計使ってるでしょう?」
これがそうじゃないのか、と焦るスコールの袖を、リノアが引いた。その目線は、カーウェイが出してきた時計に向いている。
「……確かに使ってるけど、お父さんが持ってるのはまた別のよ?」
「へ?」
「ほら、よく見て。文字盤のデザインが違うわ。お父さんが今使ってるのは、こんな堅めのローマン・キャラクタじゃなくてもっと柔らかい優しいのよ?」
「うむ、普段は妻からのプレゼントを使っている」
軍人が使うには可愛らしいデザインだが、これも夫婦愛のひとつの形だろう? とカーウェイは笑う。
「リノアが生まれて以来ずっとそちらを使っていて、それはもう使わないのでな。息子が生まれたら……と思っていたんだが、生憎となぁ……。 だからという訳ではないんだが、スコールくん、将来の義息(むすこ)に対して、これを贈らせてはもらえないかね?」
カーウェイは身を乗り出して箱を取ると、スコールへと差し出した。
「君に、『特別な贈り物』を。これからの君の人生に、幸多かれ」
ちくたく、ちくたく。
時計の動きは鼓動と似ている、とスコールは思う。機械式だと特に。噛み合った金色の歯車はちらちらとルビーやサファイアを煌めかせて針を回す。見ていると飽きなくて、昼食の手が止まっていると何度かリノアに注意された。
カーウェイの贈り物をぼんやり眺めていると、ふと電話が鳴った。
「はい、こちら司令室」
『エスタから電話ですー。1番、スコール先輩宛てですよ』
「ありがとう、クレア」
電話は父からだった。この時間なら、恐らく向こうは夕方頃だろう。1日の終わりの他愛ないささやかな話の後、誕生日の前日にエスタへ向かう約束を取り付けられた。
「俺がそっちに行くのかよ」
『わりぃなぁ、行ってやりたいんだけど今やってる仕事がな……』
「知ってる。じゃあたまには旅行気分で列車でも使うかな」
『おぉ、そりゃ良い。手配はしとくからよ』
2人分で良いなと確認されたが、当然スコールに異議はない。旅費は出してもらえるのだから、大いに甘えさせてもらおう。メモを書いて投げると、リノアはオーケイ、と指で丸を作ってみせた。
『あ、そうだスコール。あのさぁ、ち〜っと訊きたいことあんだけど』
「何」
『21歳の誕生日だろ? 何か、欲しいものあるか? 時計とか』
「あー……」
首を捻るスコール。この歳になってバースデープレゼントの希望を訊かれるとは。
「……時計は、この間すごく良いやつ手に入ったしなぁ……」
『あー、んじゃ名刺入れとか? 流石にもう持ってるか』
「うん、持ってる。名刺入れというかカードケースだけど」
『だよなぁ、お前みたいなのだと普通持ってるよなぁ……』
うーん、と電話の向こうでラグナが唸る。どうしても何か用意したいがなかなか良いものが思い付かない、と愚痴るその言葉は、スコールの口許に微かな笑みを呼んだ。
(愛されてるなぁ)
素朴な言動に現れる、素朴な愛情。スコールはそれが嬉しい。
ラグナな何かにつけて不器用な男だ。狭量かといえばそうではないのに、こと家族に関しては蔑ろにしがちで、ひどく縁が遠い。それは自分達に対する信頼なのかも知れないし、恥ずかしいからかも知れない。単純に家族付き合いが下手だからかも知れない。何せ彼は、自分とエルオーネ以外の家族を全て喪っているのだ。完全なる血族を持たない彼にとって、むしろ元は余所のお嬢さんであるエルオーネの方が可愛がりやすいのかも知れない。尤もその義姉も既に嫁した身だが。
『……ホントはなぁ、オレがやりたかったんだよ。時計を』
「時計を?」
『おぅ。ガルバディアの軍人にゃ、退役の時に恩賜とか褒章とかで貰う時計を息子や孫に贈るっつー風習があったりするワケ。
オレも一応はさ、10年の兵役終わらせてるワケだけど、最後怪我で除隊扱いだったからそーゆーのねぇのよな。でも時計、やりたかったの』
プライドたけーな、オレも。ラグナはそう言ってくくく、と笑う。
『さーしかしホント困ったな。時計もう貰ったんなら、じゃあオレからもってワケにゃあいかねぇし』「ん……」
2人して電話越しに首を捻るスコールとラグナ。端から見ているリノアは、必死で笑いを堪えていた。
「……じゃあ、ペンくれよ」
『ペン? あれか、書き物するあのペンか』
「うん、何か良いやつ。スーツ着て行くようなところにも持っていけそうなの」
『こらまた難しいモンリクエストしやがって……わかったよ、うんと良いやつ見繕ってやるからな!』
「期待してるよ」
その後、二、三話して通話は終わった。受話器を置いて数秒後、スコールは思い出したように首を傾げる。
「…………何でラグナのやつ、時計が貰い物だってわかったんだ?」
リノアは耐え切れず吹き出した。
「あなた自分で言ったじゃないの。『手に入れた』じゃなくて『手に入った』って!」
「あれ?」
そうだったっけ? ときょとんとするスコールに、リノアはますます笑う。
「まぁそれはともかく、何かお土産買っていかないとね」
「あれが良いよ、焼き菓子のセット」
「あなたそれ、自分が食べたいんじゃないの。確かにお呼ばれしちゃうけど」
リノアが身を乗り出して軽く小突くと、スコールは大仰に首を竦めてくすくす笑った。
「あ、そういえばお姉さん、クリームをバラの形に作れるように練習したんですって! きっとケーキには気合い入ってるわよ〜?」
「楽しみにするのはこっちの勝手だよな……」
スコールは残りのサンドイッチを口に収め、丁寧な手つきで時計を懐にしまい込む。折しも今日は晴天なり。仕事は特に急ぐものもなし、引き継ぎを済ませれば大丈夫。
「午後から有休取って、出立に備えようか」
「あら、堂々としたサボり宣言ね」
「サボりじゃないぞ、立派な権利主張だ」
「はいはい」
リノアは軽やかに応えを返すと、窓の外をちらりと見上げる。晩夏の太陽がきらきらと輝いているのが目に入った。
今年の誕生日も、晴れそうだ。