リノアの部屋は、相変わらず品の良い調度品と彼女らしい可愛い小物で満ちていた。
勝手知ったる恋人の部屋、部屋に入ったスコールはいつも通りリビングのソファにべろりと座り込む。留守番をしていたはずのアンジェロはすっかり寝入っていて、スコールが来たことにも気付かない。
「スコール、先にお風呂入っちゃって」
遅くに彼が部屋に上がったとき、リノアはいつもこう言う。どこか緊張しているようなのは、この後に何があるのか予想出来るからだろう。スコールはくす、と笑って言われるままにバスルームへ向かう。
「シャンプー、使って良いのか?」
「使うならリンスするんだよ」
スコールは軽く肩を竦めてドアの向こうに消える。
リノアはそれを確認すると、軽く息をついて片付けを始めた。適当に放り出されたスコールのジャケットを取り上げ、軽く手入れしてコートハンガーに掛ける。自分のスプリングコートとバッグも定位置に置き、一組だけ置かれているスコールのスウェットを引っ張り出した。下着は……まぁ良いだろう。明日の朝までに乾けば良い。
シャワーの音が止まり、リノアの胸はどきっと音を立てた。上がってくる気配はまだない。リノアは一声かけてバスルームにスウェットを置いてきて、お茶の準備を始めた。温かい焙じ茶の準備。
カップを温める為に湯を注いだところで、スコールがバスルームから戻ってきた。やはり髪を洗ったらしい、頭からタオルを被っている。
「何?」
「焙じ茶だよ。あ、最近流行りのミルクティーにした方が良かった?」
「いや……。後は、注ぐだけか?」
「うん」
スコールの問いへ軽く頷き、リノアはバスルームヘ向かう。
残されたスコールは、湯の張られたカップに触れてみた。小さめのそれは、手にほんのりと熱を伝えてくる。
(いつもはコーヒーなのに)
寝る前だからと気遣ってくれたのだろうか。スコールはふと淡く笑み、バスルームの気配を窺った。まだ上がってくる様子はない。
スコールはそろりとソファに戻ると、愛用しているヒップバッグからひとつの小箱を取り出した。滑らかなベロア調の手触りを軽く唇に当てると、どくり、と強く胸の奥が騒いだ。
(まぁ、上手くいかないのがお約束だよな)
スコールがどれほどタイミングを図っていたか、リノアは知らないだろう。何気にロマンチストなこの青年は、いろいろと考えてはいたのだ。
最初は、彼女の誕生日に申し込むつもりだった。しかしこれは、カレッジで出来た友人達が開いたバースデーパーティーに巻き込まれ、2人きりになることも出来なかった。
次は、早咲きの桜の頃を狙った。春先の花の雲はさぞかし……と思ったのに、今年はあまりにも寒くて寒くて、桜はなかなか開かずにいた。
もう猶予はない。今日を逃せば、自分は多分気力を失うだろう。1年くらい無為に過ごしかねない。今日ははっきり言って記念日でも何でもないが、そんなことはこの際瑣末事だ。問題といえばむしろ、互いに酒が入っているので冗談と捉えられかねないということ。有り得る事態だけに、スコールとしては非常に心配だった。
決戦の時が迫る。
「お待たせ♪ ……あれ、まだ容れてないの?」
「あ、あぁ……容れたら冷めちゃうから、思い直して」
思いっきり飛び上がりたがった身体を宥めて宥めて、スコールは当たり前のように寄り添ってくるリノアを迎えた。ごくさりげなく、ズボンのポケットに手を突っ込み小箱を隠す。
リノアはにっこりと微笑んだ。
「待っててくれてありがとう」
「いや……」
「座ってて。持ってくから」
スコールは肩を押されてソファに座り込む。と同時、溜息が出た。膝を支えにした片手で、眉間を揉む。
――大丈夫か、俺。
自分でも情けないほど怖じ気付いていた。
わかっている。仮令失敗したところで彼女は笑ってくれるだろう。だが何と言うか、これは自分にとって一世一代の大見せ場なのだ。手抜かりなくいきたいところだった。
「疲れた?」
いつの間にか、リノアが隣に座っていた。はっと顔を上げると、労りの色がその優しい面差しに滲んでいる。スコールは笑みを返して頭を振った。
「いや。……ありがとう」
優しい、リノア。
決して「美しい」というタイプではない。だが心根の良さと明るい笑顔が強烈な魅力を放ち、人を引き付けるタイプだ。
彼女を自分だけのものにしたい。そう言えば、彼女は笑って頷くだろう。何のてらいもなく。未来を全て欲しいのだと願っても、そうしてくれると思う。
だが口を開こうとしたら、喉が干からびた。
「スコール?」
スコールが何かを話したそうにしている。が、薄く開いた唇の隙間から何も聞こえてこない。リノアは辛抱強く待つことにした。
こういうときのスコールは、少しそっとしておいてやるのが良い。多分、いろいろと考えている最中で、言いたいことがちゃんとまとまっていないのだ。そんなことを想像出来るくらいには、一緒に過ごしてきている。
――しかし、何だろう、今日はやけに沈黙が長い。スコールは何度も口を開こうとしては閉じ、また僅かに開いては引き結ぶ。
流石のリノアも苛々してきた。
「スコール、言いたいことあるならはっきり言う!」
「あっ、あったかくなったら俺と結婚して下さい!」
……恐らく、ほぼ脊髄反射で言ったのだろう。リノアの苛立った声に肩を聳やかせたスコールは、真っ青になって口許を押さえた。
「あ……ぁ……」
(馬鹿だ、俺)
やってしまった。何と言う失敗だ。よりにもよって反射で出てきた台詞がこれとは。
対するリノアは真っ赤になっていた。
「あ……えぇと、ほ、本気? 本気だよね、スコールがこんなことで冗談言うわけないし……」
おろおろするリノア。スコールはどんどん惨めな気分になっていく。
本当は、もうちょっとマシな台詞を用意していたのに。予定は未定を地で行ってしまい、残されたのは何の変哲もない平日で、しかも解散は夜遅くなるとわかっていた。だからもう何処にも連れ出せはしない。代わりにせめて言葉だけでも――そう思っていたのに、情けない!
いっそ泣きたい気分になったスコールは、自棄になってポケットに隠していた小箱をリノアへ押し付けた。リノアは零れ落ちかけたそれを慌てて受け止める。
「これ……」
ベイビーピンクのベロアの小箱。ころんと丸っこい愛らしい形から想像出来る中身は、ひとつしか思い付かない。
「スコール、これ、遅れたバースデープレゼントとかじゃないよね? 違うよね?」
スコールは小さく頷いた。リノアの目が潤む。
「……ね、これ、開けて? わたし、スコールに着けてほしい」
リノアはスコールに擦り寄り、甘えた声で希う。それに応じて、スコールは彼女の背から手を回して小箱を開いた。
中には、硬く煌めく露を載せた繊細な金細工のリングと、片一方だけのピアス。筋張った指先は慎重な手付きでリングを取り上げて、リノアの左手を掴む。
誂え物のリングは、彼女の薬指にぴたりと収まった。
「素敵ね」
ささやかな蛍光灯の許でも、露は煌らかに光を弾く。それは、「侵されざるもの」という意味の名を持つ光。その露を置かれたこのリングは、
リノアは愛おしげにリングを眺める。その彼女を、スコールは後ろから抱き締めた。
「……ずっと、一緒にいたいんだ。俺と……結婚、してください」
甘く低い声で、もう一度希う。
リノアの両の目から、透明な雫が零れ落ちた。
「はい……!」
リノアは力強く頷く。
ほっとしたのだろう、漸く笑みを見せたスコールは、今や婚約者となった彼女の頤へそっと指を這わせた。促されるままリノアは彼へと振り向いて……柔らかく、唇を合わせる。
焦点が合わない程近くで、リノアがふと微笑んだ。
「考えてみたら、今日初めてのキスじゃない?」
「……そうかもな」
スコールも、笑った。
シーツの海に溺れ込んで暫し。甘い気怠さを愉しみながら、リノアは愛おしげにリングを眺めていた。
「ねぇ」
「ん?」
緩やかに髪を弄っていたスコールの手が止まる。リノアはくるりと向きを変え、闇に強い蒼銀の瞳を覗き込んだ。
「『あったかくなったら』、ってスコール言ってたけど、あれって今日言うつもりで用意してたわけじゃないよねぇ? 確かに今年はちょっと寒いけど、例年はそういうわけじゃないでしょ?」
スコールは気恥ずかしげに微笑み、頷いた。
「本当は、リノアの誕生日に言おうと思ってたんだ。でも、皆がパーティーしただろ? 2人きりになれなかったから、諦めた」
「成程。だから今日になっちゃったわけだ」
「そう」
苦笑するスコール。
リノアはうつ伏せになると、目の前にリングをはめた左手を翳した。月明かりに、囁くような光がきらりと目に映る。
「あーぁ、残念だったなぁ……。パーティーが悪かったって言うつもりじゃないけど、これを着けて自慢する機会が減っちゃった」
「自慢?」
「そ。『わたしはスコールのものです』って」
得意げに言うリノアに、妙な自慢だな、とスコールは苦笑した。
「俺のものになるのが自慢なのか?」
「うん」
リノアは何のてらいもなく頷く。
「『最愛の伴侶を見つけるのは、さながらガラクタの山で一粒の宝石を見つけるようなものだ』」
「誰の言葉だ、それ?」
「わかんない。でも、すごく印象に残ってるんだ。あのね、ガラクタの山の中にはね、いくつかの宝石と一緒に本物以上に煌めいてるイミテーションの石も混ざってたりするの。勿論、それで満足できる人はそれを選んでも良いんだよ。
でもさ、こうやって、そのガラクタの山の中から一番の宝石になる原石を見つけて、それを綺麗に綺麗に磨いていけるのって本当に幸せなことだと思うんだ。だから、わたしは自慢なの。あなたに出逢えて、長くはないけど短くない時間を一緒に過ごして、そして……最愛のあなたと、一生の誓いを立てる。これが、幸せで自慢でなくて何なの」
リノアが、微笑む。その笑顔は、初めて出逢った17の頃と何ら変わらない。だがその奥には、かつてにはなかったしなやかな強さが備わっていた。それはスコールを庇護し、支え、労り、叱咤し、また激励する。嘆きの日には拠り所を与え、また前へ進むための甘露を与えるのだ。
「……すごいな、リノアは」
「え、そうかなぁ〜?」
心の底から、スコールは思う。
彼女は、「スコールとさえ出遇わなければ」と言うことだって出来たのだ。魔力を受け継いで、しんどい思いもしたはずなのに。SeeDになって、辛いものも見てきたはずなのに。それでも彼女は「出逢えて幸せ」と言うのだ。
――俺も、リノアと出逢えて幸せだ。
「愛してる、よ。これからも、ずっと」
その言葉は、自然に出てきた。
顔を見られなかっただろうか、とスコールは思う。視界が歪んでいることは、もう少し気付かれたくなかった。
リノアはくすぐったそうに首を竦め、スコールの肩に頬を擦り寄せた。彼が囲うように両手を回すと、彼女もするりと両手を絡ませ、彼を捉えた。
そして、囁く。
「わたしも、愛してる……」
2人は暫く、そのまま抱き合っていた。温かで力強い激情が漸く収まったころ、リノアは思い出したように身を起してサイドテーブルに手を伸ばした。
「そういえば、ケースにピアスが入ってたよね。こっちは、スコールの?」
「……あぁ」
「お揃い、だね」
無邪気に喜びを見せたリノアに、追って起き上ったスコールは目を細め、甘えるようにリノアを見やる。
「着けてくれるか? リノアが」
「勿論」
リノアはにっこりして、その細い指先でそっとピアスを摘みあげた。
「あ……しまった、先に外さなきゃ」
己の左耳を見た彼女の呟きに、スコールは小さく吹き出す。
「あ、こら、笑うなっ」
「悪い」
それでもスコールの笑いは収まらない。最初は頬を膨らませていたリノアだったが、やがてその口許は甘い弧を描き出した。ひとしきり笑うと、リノアはそっとスコールの耳へ手を伸ばす。小さなシルバーのピアスは外され、代わりにはまったのは華奢な金鎖に一粒の露が下がるそれ。
「どうだ?」
首を傾げるスコール。リノアはじっくり見回した後にぽそっと呟いた。
「……何か、えっちい」
「何だその感想」
柳眉が片方だけ上がる。
「似合わないか」
「そんなことないけど……なーんか、やらしい感じ」
リノアは拗ねた様子で唇を尖らせると、爪先でぴんと露を弾いた。揺れる感触がスコールの耳に伝わる。
「わたしと2人でいるとき以外は着けないでね?」
「どうして?」
「どうして、って……どうしても! それを着けてるスコールはわたしのもので、わたしだけのスコールって証なの! だって……」
お揃いなんだもん。
恐らく真っ赤な顔でそう言ったのだろうリノアがあまりに可愛くて、スコールは思いっきり最愛の伴侶を抱き締めた。