「少し…不安だな。こうやって、お前だけを日本に返すのは」
「あっはは、そんな不安要素なんてないじゃん。心配しすぎ」
空港の待合室で、俺の目の前で彼女が笑った。
いつもの笑顔。
十分いつもの彼女なのに、俺は不安で仕方なかった。
それは、虫の知らせですらないもの。
俺はそれを、彼女の中に宿る小さな命に対する不安だと解釈していた。
飛行機の振動が、彼女と「それ」に悪い影響を与えやしないかと。
考慮して、安定期に入るまでひと月ずらした。それでもまだ不安は消えない。
不安を解消するために飛行機に乗せる決心をしたはずなのだが。
『そんなに不安なら船に乗せればいいのに』
いつかそう言われたが、そっちのほうが普通不安だろう。
「大丈夫だよ。実家に着いたらちゃんと電話するから」
「サボってメールにするなよ」
「しませんよー」
気楽そうに笑う妻を、俺はそっと抱き締めた。
「絶対…声を聞かせろよ」
腕の中で身じろぎする。多分、首を傾げるか何かしたのだろう。
「わかってる、ちゃんとするよ」
開放してやると、は出会った頃よりずっと大人びた顔で微笑んだ。
「それじゃあ、また、今度…ね?」
普段とは違う軽い口付けを交わして、彼女は空の人となった。
もう一度 Act.1
が旅立った次の日の昼頃、俺は突然の訪問を受けた。
「手塚」
「あぁ、不二か」
息せき切って現れたのは、昔からの友人にして好敵手の不二 周助。
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
「いや、その…見た?」
「何を」
とりあえず不二を招き入れ、もてなすべく紅茶を入れる準備をする。
「ニュース」
「いや、今朝は…。寝坊したんでな」
昨日は不安が積もり積もって、寝付くのが遅くなったのだ。
「珍しい…」
まだ息の整わない不二にティーカップを渡すと、不二はそれを一気にあおった。
一息つき、苦々しいような苦痛なような表情を見せる。
「手塚、聞いて。昨日…」
切羽詰ったような不二の言葉をさえぎったのは、電話のコールベル。
少し古風な感じにセッティングされた音は、広々としたリビングにやたらと響く。
「待ってくれ、多分からだ…」
普段どおり、2,3度のコールで受話器を取る。
「俺だ」
『Hello? Is That Mr.Tezuka?』
「…?」
聞こえてきたのは愛妻の声ではなく、知らない男の声だった。
は日本に帰ったはずなのに、日本人ですらない。
「Yes,That is Tezuka. Could you tell me your name?」
『I am...』
相手は、航空便のチケットを買った旅行会社の社員だった。
電話を置いているカウンターに体をもたせかけ、やけに聞き取りづらい彼の英語の判読に努めた。
ちらりと目に入った不二の顔が、変に緊張している。
(まさか、だよな?)
昨日の不安が、また蘇ってきた。
あの、虫の知らせともいえない、不快感。
そして、決定的な言葉が俺を襲った。
『…現在、現場では必死の捜索が進められていますが、乗客150名の内、生存者がいる確率は絶望的…』
『行方不明者のリストです…』
『現在死亡が確認されたのは以下の50名…』
CNNでもどこでも、カリフォルニアでの飛行機墜落事故を扱っていた。
いつもはくつろぐためのソファも、今日ばかりは苦痛を和らげもしない。
聞きたくもない事故の情報を、俺は必死で聞いていた。
喉に何かがこみ上げる。
その感触は、泣きたい時のそれに似ていた。
「…『Tezuka』の文字は、ないね…今のところ、だけど…」
せめて少しでも慰まれば、とでも思ったんだろう、不二が言った。
「不二…お前、もう帰れ」
自分でも驚くほど弱弱しい声。
「…辛いニュースを聞くのは、俺だけでいいから…」
「だけど、今の君を置いて帰るわけには…」
「不二」
声を荒らげて立ち上がった不二を見る。
不二は、自分のほうが思いつめたような顔をしていた。
「いいから、…じゃ、なかったな。彼女についててやれ」
不二の奥さんは、の無二の親友だ。
こんなニュースは聞かせたくない。ましてや、1人でなど。
「でも手塚は」
「大丈夫だ」
こうやって強がるのは昔から慣れている。
「良いから彼女についててやれ。彼女のことだ、多分1人で泣いてるぞ」
「…ごめん」
こうして、俺は1人になった。
独りに、なった。
Act.1 End.